闇に紅射す 1


その紅は宵に霞み行く雲のように 闇の中へ滲んで融けた それでも鮮明に覚えている あの時この腕の中に咲いた華の 血のようなその色を 滾るようなその形を この指先に、この身体に、この記憶に刻みつけた まるで燃えるようなその温 …

闇に紅射す 2


大坂は江戸幕府直轄の天領地で、刑事と公事(くじ)(今で言う民事)を扱う奉行所は存在するが実質的な支配階級を持たず、自治は町民たち自身によって行われている。 北は天満から南の道頓堀向こうの芝居町までを天満・北・南の三つの自 …

闇に紅射す 3


進之丞は誠の部屋を訪ねると、主が何も言わないうちにどっかりと腰を下ろした。 自分より三つ年下の誠に今や進之丞は何の遠慮もなく、当然のように煙草に火を点けて言った。  「今日から俺、家に戻るけぇ一言断っとこう思うてな」   …

闇に紅射す 4


再び家に帰りついた時には雲が月を隠していて、辺りはすっかり闇に塗り込められてしまっていた。 夜になるとほとんど目が見えないらしい客人は、勝手の分からない家にひとり待たされてさぞ困っていたことだろう。 その証拠に、彼は自分 …

闇に紅射す 5


事故は、藩校で行われた御前演武会で起こった。 芸州藩の主流である明心流(みょうしんりゅう)剣術演武は、防具は着けず木刀を用い『仕太刀(しだち)』と『打太刀(うちだち)』の二人で七本の型を行う。   攻撃を仕掛ける仕太刀の …

闇に紅射す 6


その名を、忘れたことなどない。 その友の顔が、紅い血に濡れた瞬間のことも。 ──殺してしまった。 その瞬間、そう思った。 視界の隅の方へ運ばれていく織部を呆然と見送りながら、その後どうやって家に帰ったのかは憶えていない。 …

闇に紅射す 7


門をくぐった途端、鼻をつくような刺激臭に進之丞は思わず顔を顰めた。 室内に充満する焼酎と血の臭いに少しずつ慣れようと、袂で口鼻を抑えつつ懸命に息を細めていると、奥から白い割烹着を血に染めた男が出てきて一瞬息を飲んだ。   …

闇に紅射す 8


織部が目を覚ました時には既に家主の姿はなく、陽も大分高くなっていた。 どうやら、長旅の疲れにすっかり眠りを誘われてしまったらしい。 夜が明けてようやく、この家が土間と居室だけの典型的な長屋の一室だということが分かった。 …

闇に紅射す 9


顔の半分を、西日が温かく照らす。 手元に落ちる長い影と橙色の光に、今日という一日の終わりを実感する。 筆を止めて思いきり伸びをした時、視界の端を掠めた黒と紅色に気づいて、剛庵は顔を上げた。  「ああ、来ると思ってたよ」 …

闇に紅射す 10


まだ、空が蒼い。 もう少し暗くなるまで──織部の視界が闇に閉ざされるまでは、家には帰れない。 かといってなんとなく寅屋へ戻る気にもなれず、進之丞は家を通り過ぎ大川まで足をのばした。 町の向こうに沈み行く夕陽の、残り火のよ …