梅香遙か 1


冷たく無機質な冬の空気を甘酸っぱい香りが和らげ始めると、冬がもう背中を見せていることに気づく。 その香りが強くなるとともに、色の乏しかった風景は鮮やかな花の色を映しはじめ、風も温み日一日と春に近づいてゆく。 そしてその可 …

梅香遙か 2


芸州藩四十二万石浅田家の家臣団には、非常に細かい序列があった。 大別すると侍士(じし)、徒士(かち)、足軽の三つがあり、侍士は基本的に知行取(ちぎょうとり)1以上で藩主拝謁の際は直接応答を許され、徒士は切米取(きりまいと …

梅香遙か 3


 「──鼎、」  「もう、いけません」 伸びてきた手を掴んで止めて、鼎は低く言った。 しかし禎織は掴まれた腕を縮めて、そのまま鼎を胸に抱き込んだ。  「……!」  「相変わらず細いな。ちゃんと喰うておるんか」 骨張った細 …

梅香遙か 4


晴れ渡った空、満開の桜の下、かすかな風に舞う花弁の中に真っ赤な血が飛んだ。 血で穢れた砂の上で続行する訳にはいかぬと、御前演武会はそこで中止、日を改めることとなった。 場の後始末で騒然となっている中を、禎織は裃の裾を翻し …

梅香遙か 5


彩度の低い視界に、隣家の塀越しに覗く紅い梅の花が揺れる。 明石の梅は、芸州よりも少し遅い。 そしてやはり、芸州で見る梅の方が美しかったと、そんなことを思った。 側に居られないならいっそ離れたいと望み──そしてあの手の中か …

梅香遙か 6


こういう風の冷たい日は、心の臓がきゅっと痛む。 以前それで倒れてから、急に死を近くに感じるようになった。 しかし、やがて訪れるであろう死を怖いとは思わない。 むしろこれでやっと、今生の悔いと断ち切れぬ想いから解放される─ …

梅香遙か 7


禎織は縁側に腰を下ろすと、雪の積もった庭を静かに眺めた。 冷たい空気を胸一杯に吸い込むと、甘酸っぱい梅の香りが鼻を抜けていく。 この季節に感じる胸の痛みは、時間が経っても消えることは無かった。 しかしもう拭うことは叶わな …

梅香遙か 最終話


清楚で凛としたその香りは慎ましやかに笑う人を思わせ、未だ尽きぬ想いを昂ぶらせる。 しかしその香りは既に遠く、間もなく芸州にも桜の季節が訪れようとしていた。 桜の花咲くその頃には、織部も進之丞と三度の再会を果たすことだろう …