藤花詩 1


何処をどう走ってきたのか、まして自分が何処にいるのか、この暗闇では分かるはずもなかった。 雨でぬかるんだ地面を蹴る音が、執拗に背後を追ってくる。 生きることに絶望して居たはずなのに、何故今更こんなにも死から逃げようとして …

藤花詩 2


 「おはようございます」  「……!?」 その声と顔に、一瞬自分が何処に居るのかと頭が混乱した。 朝日の眩しさに目が覚めると共に、昨夜の一件をようやく思い出した。  「あっ……、おはよう。ええと……」  「藤野、と呼んで …

藤花詩 3


 「誰か思うたら世良さんやん。久しぶりやね。腹でも壊しました?」  「弘斎先生、お久しぶりです。あの、実は往診を……」 言いかけたところで、弘斎の後ろから意外な男が顔を覗かせた。  「……あれっ、先生?」  「右近じゃな …

藤花詩 4


 「なんじゃ、一人でさっさと……」  「あいつ、可愛いな」 進之丞は織部の文句を黙殺して言うと、煙草盆を引き寄せ煙管に火を入れた。  「ああ、……最初は女と思うたくらいじゃし」  「あの目で見つめられると、ちとどきっとす …

藤花詩 5


 「おお、貴之介。どがぁしたんね、こがな時間に」 進之丞は道場に入るなり、わざとらしく言って笑った。  「どがぁしたじゃないですよ!世良さんが定刻になっても藩邸に来んけぇ、心配して見に来てみたら……」  「まあまあ、遊ん …

藤花詩 6


上州吉乃藩は一万石の極小藩だが、主家である鷹司松平家は五摂家の鷹司家と徳川家の出自を持つ、家格の高い家である。 藤野は藩主信禎の三男として正室藤姫(ふじひめ)より生まれたが、長男と次男は側室の清御前(さやかごぜん)が産ん …

藤花詩 7


 「鷹司松平家と言えば、御親藩(ごしんぱん)1ではないか……」  「……ああ」  「その嫡男子が、こんな……、こんなこと──」 織部は、感情を抑えようとするあまり堅苦しい言葉使いで言うと、怒りに肩を震わせ唇を噛んだ。 進 …

藤花詩 8


女児の着物は藤野の正体を隠すには都合が良く、月を隠した曇天も幸いした。 三人は夜道を提灯を持たずに寅屋へ向かい、店表ではなく庭から母屋に入った。 庭にはそろそろだろうと考えた右近が、燈籠に火を入れて待っていてくれた。   …

藤花詩 9


 「お前、すごいなあ」  「なによ急に」  「こいつが一目で男じゃと分かったんは、お前だけじゃ」  「女の臭いがせえへんかったさかいね」 春子はそう言ってひそりと笑うと、改めて藤野を見た。  「せやけどこうして見ると、ほ …

藤花詩 10


寅屋の連中には、とりあえず藤野の素性は伏せておくことにした。 万が一にも彼が此処に居ることが追っ手に漏れるのを防ぐためと、また藤野に対する無用の気遣いをさせないためにである。 しかし町人の息子というのは明らかに不自然なの …