冷たく無機質な冬の空気を甘酸っぱい香りが和らげ始めると、冬がもう背中を見せていることに気づく。
その香りが強くなるとともに、色の乏しかった風景は鮮やかな花の色を映しはじめ、風も温み日一日と春に近づいてゆく。
そしてその可憐な香りは、梅の花が好きと言う人への未だ尽きぬ密かな想いを昂ぶらせた。


この季節はいつも、胸の奥がじわりと苦しくなる。
家の中で寒さに凍えていた人々も、地中で眠っていた虫たちですらも軽やかに外へ出てくる麗しい季節の到来だが、自分にとってはただ切ないだけの日々の始まりであった。

その人は、梅が散って緑の葉になり桜の季節になってもまだ名残惜しいのか、桜より梅の方が好いのだとよく言った。
だから梅の時期から桜の季節まで、その苦しみは続く。
そして毎年、想いを遂げるには不自由すぎた我が身を今もどこかで恨んでいることを思い知らされる。


けれど時は既に、後戻りは許されぬほどに過ぎてしまった。
だから素知らぬ顔で今の距離を保ちつつ、緩やかにその想いが朽ちていくのを待つしかない。
その緩慢な息苦しさだけが、今も自分と彼を繋いでくれる唯一のものだった。

恐らく自分は、死ぬ間際まで苦しみ続けるのだろう。
この命尽きるまで、想いはきっと朽ち果てぬから── 



梅香遙ばいこうはる

温かい風に誘われ、ここ数日で桜の蕾が一斉にほころびはじめた。 春の到来を喜び、歌うように花開いていく桜の横に、既に緑の葉が萌え出始めている梅の木がある。 世良禎織は庭の桜を後目に、旬を過ぎたその梅の木を眺めて眩しそうに目を細めた。 毎年この季節になると囚われる想いに暫しぼんやりとしていると、ふと廊下をやってきた足音に意識を遮られた。 見ると一人息子の織部が藩校孝道館から帰って来たのか、竹刀と道着を包んだ風呂敷を抱えていた。 世良家は代々藩主の側御用を勤める中小姓組に属してきた家で、現当主の禎織は文武両道に秀で、また和歌や香道などにも通じた傑物と言われた。 藩主長房ながふさはその才と実直な人柄を高く評価し、禎織は中小姓頭に出世した。 しかしその嫡男織部は、幼い頃から剣術は優れていたものの学問の成績は中の上が精々であった。 戦も無くなって久しいこのご時世、武家の家臣には剣よりも学問や知識の方が必要と言う風潮が強い。 勿論武士の嗜みとしての鍛錬はするが、学を疎かにして武だけで出世出来る時代ではもう無い。 本よりも竹刀を持ちたがる織部を禎織は憂慮していたが、藩主長房の嫡男長徳もまた武を好み、側小姓として孝道館から剣術に優れる者が選ばれた。 その一人として織部が城へ上がるようになって、数年が経つ。 そんな織部にとって藩校での剣術の授業の日は何よりの楽しみであるはずなのに、今日は何故だか浮かない顔をしているように見えた。 禎織は不思議に思って織部を呼びとめると、部屋に招き入れた。  「浮かぬ顔をして、どがぁした。まさか今度の御前演武会、選に漏れたのか?」  「……いえ、孝道館子弟の部の代表として、打太刀を仰せつかりました」 近々開催される御前演武会は藩主親子や重職の者達が列席し、その御前で芸州藩に伝わる剣術、柔術、槍術などを藩士とその子弟が披露する。 これには他国の名のある剣士たちも招かれているため、演者は藩の面子を賭けて出場することになる。 孝道館でも先日選抜試合が行われ、今日その結果が言い渡されたと言うのだ。 芸州藩に伝わる明心流剣術演武は木刀で行い、攻撃を仕掛ける『仕太刀』の刀を『打太刀』がいかに美しくかわすかを見せるもので、上位の者が打太刀を務める。 その打太刀に抜擢されたのだから喜びこそすれ、どうしてか織部は浮かない顔をしたままだった。  「それなら喜ぶべきことじゃあないか。何故そがん顔をしておるんじゃ」  「実は先日の選抜試合、自分は最後に進之丞に負けてしもうたのです。なのに、俺が打太刀なんて」  「…………」  「じゃけぇ、進之丞にも悪うて……」 織部はそう言って項垂れたかと思ったら、突然顔を上げた。  「俺、やっぱり御指南役に言うてきます」  「待て、何を言うつもりじゃ」  「打太刀は進之丞が務めるべきです。そう、言うてきます」  「待ちなさい、織部」 禎織は既に立ち上がりかけた織部を制すると、もう一度その場に座らせた。  「お前の言うことも分かるが、御指南役殿にも考えるところあってのことであろう。それにお前がけちを付けるような真似をすれば、御指南役殿の顔を潰すことにならんか」  「…………」  「進之丞も、お前に打太刀を譲られるような形になっては、素直にうんとは言えんじゃろう。逆の立場ならどうか、考えてみよ」  「……でも、」  「明心流剣術演武は、一人でするものではない。仕太刀と打太刀があってこそのものじゃ。既に決まったことならば、進之丞と互いに力を合わせ如何に美しく立派な演武をやりきるか、お前はそれを考えるべきではないのか」  「…………」  「今度の演武会は客人に芸州の武を披露する場でもある。個々の云々よりも、芸州の名を汚さぬよう家臣一同稽古に努めることが肝心じゃ。じゃけぇくれぐれも、この件で進之丞に詫びたりするでないぞ。それが進之丞の矜恃を傷つけることになるのは、分かるな?」  「……はい」  「分かったなら、下がって良い。来るべき日に向けて稽古に励みなさい」 禎織がそう言うと織部はぺこりと頭を下げて、先刻よりは些か明るい顔で部屋を辞した。 織部の足音が聞こえなくなると、禎織は用人に外出の支度を言いつけ、日が暮れるのを待ってこっそりと家を出た。 供も連れず向かった先は、孝道館で織部たち家臣子弟の剣術指南をしている高取監物たかとり けんもつの家である。 高取は突然の中小姓頭の訪問に、何事かと青ざめた。 禎織はそんな高取に、役目ではないと前置きしてから敢えて言葉を崩した。  「夜分に相済まぬ。実は今度の御前演武会のことで、ちぃと聞きたいことがあっての」 そう言った途端、硬い表情をしていた高取はぱっと顔を輝かせ、『聞きたいこと』の内容も聞かずに言った。  「そのことでしたか。織部殿は子弟の部の打太刀に抜擢してございます」  「…………」 高取のその顔を見て、禎織はやはり、と思った。 選抜試合を最後まで勝ち抜いた相馬進之丞は、禎織の部下、相馬 かなえの一人息子である。 高取は部下の息子が上司の息子より上位にあってはならないと、織部を打太刀に指名したのであろう。 しかし禎織はそんな気遣いを喜ぶような男ではない。 むしろ、子供達の心に不要な傷を付けかねない高取の忖度を苦々しく思った。  「演武会に出場する者を決める試合、勝ち抜いたのは相馬進之丞じゃと聞いたが」  「は……」 高取は禎織の思いがけず厳しい物言いに、再び体を硬くした。  「高取殿、織部ももう物事の分かる年頃じゃ。子供の精進する心を損ねては、藩校に通わせる意味が無い」  「は……!」  「じゃけぇ織部よりもむしろ、進之丞を気遣うてやってくれ。そして今後、儂への余計な気遣いは無用じゃ」  「は、はあっ……!」 進之丞は元々、藩校へ通える身分ではなかった。 しかしその利発さを禎織が見込んで、自ら口を利いて入学させた経緯がある。 だからこそ高取は織部を打太刀にしたのだろうが、実力が物を言うはずの場に身分を持ち込んでしまっては、下の者は精進する気を失くし上の者は身分に胡坐をかくようになるだろう。 それは、ひいては家臣の怠惰と弱体を招く。 少なくともこれから藩を担って行く子供たちの教育の場でそのようなことがあってはならないと、禎織は思っていた。 進之丞は、禎織の見込みどおり学問でも武芸でも優秀な成績を収めており、織部と共に世子長徳の稽古相手に抜擢された。 本来なら藩校にも通えない身分でありながら長徳に気に入られた進之丞が、他の小姓たちに妬まれていることは織部から聞いている。 進之丞には風当たりが強く辛いかも知れないが、そういう彼の存在が太平の世に惰弱になりつつある武家の子供たち──織部も含めて、その刺激になって欲しいと思う部分もあった。 そして進之丞が、そういったやっかみにも負けず日々勉学と武芸に勤しんでいると聞いて禎織は密かに応援していたのだった。 だから今回のことで、織部が不満に思う以上に進之丞が傷ついていることは容易に想像がつく。 禎織は自分の屋敷の前で一旦足を止めたが、少し考えてからそのまま通り過ぎ相馬家に向かった。 相馬家は世良の家に近いが、規模は全く違う。 夜更けゆえに門は閉じられていたが門番などは居ないから、その横の小さなくぐり戸は開けられていた。 禎織はそっとくぐり戸を抜けると、ほのかな灯りの点いている部屋の格子窓をほとほとと叩いた。 中で、刀を取る音が聞こえた。 小さな声で、俺だ、と告げると途端に慌しい音がして、玄関へ走って行く気配が分かった。 禎織は声だけで自分と分かってくれたことに内心安堵し、かすかな胸の高鳴りを覚えつつ自分も玄関へと回った。  「世良様──」  「すまん、こがん遅くに。進之丞はもう寝たか?」  「は……」  「ちっと、上がらせてもろうてもええじゃろうか」  「……はい」 鼎は寝巻きに羽織を掛けただけの姿で、少し申し訳なさそうに頷いた。  「すぐに着替えて参りますので、こちらでお待ちください」 鼎は禎織を小さな客間に通すとそう言ったが、禎織はそれを止めた。  「いや、突然来たけぇそれで構わん。茶なども要らん。気を遣うな」  「は……恐れ入ります」  「……こがんして会うのは久しぶりじゃな」 禎織はそう言うと、蝋燭の暗い明かりに浮かぶ鼎の顔を見て小さく笑った。 しかし鼎は表情を硬くしたまま俯いて、寝間着の襟元を心もとなさそうに少し直した。 自分の配下なのだから城内で顔を合わせることはあるが、末端の鼎が組頭の禎織と直接口を利くことなど今は殆ど無い。 鼎が緊張しているのも無理はなかった。  「実は、御前演武会のことなんじゃがの。進之丞は何か、言うておったか」  「……織部様と演武をすることになったと、そがん申しておりました」  「それだけじゃなかろ?」  「…………」  「気を遣うなと言うたろう。俺は進之丞の本心が聞きたいんじゃ。じゃが進之丞に直接訊ねてもあの子は言わんじゃろうけぇ、お前に聞きに来たんじゃ」 そう言われて鼎は、禎織と視線を合わせないままやっと重い口を開いた。  「試合には勝ったのに打太刀にはなれんかったと──悔しそうにしておりました」  「やはりな……。いや、指南役の高取が要らぬ気遣いをしおったようでの」  「…………」  「進之丞には相済まんが、高取の面子もある。進之丞も今更打太刀を譲られても面白うないじゃろうから、今回は堪えて精一杯仕太刀を務めて欲しいと、お前からそがん励ましてやってくれ。高取には今後無用な気遣いはするなと言うておいたけん」  「世良様……」  「すまない」 禎織はそう言って、鼎に頭を下げた。 鼎はその謝罪を悲しそうな顔で見つめ、小さくため息をついた。  「……いいのです」  「え……?」  「これで、ええのです。身の丈に合わん夢を抱かせる方が、かえって酷じゃと思いますけぇ」  「なんじゃと?」  「世良様のお口添えで孝道館に通い、長徳様の御側にまで仕えさせてもうて……これまで進之丞は身に余るお引き立てを受けて参りました。本人も欲が出てきたんか此度も打太刀を狙うなどと意気込んでおりましたが、これ以上を望むは身の程知らずというものです。己の立場を知る、良い機会でありましょう」  「──お前、ホンマにそがん思うておるんか」  「はい」 先刻までどこか遠慮がちだった鼎が、きっぱりと頷いた。  「世良様と織部様には、本当に感謝しております。……ですがこれ以上は、もう」  「構うな、と言うのか」  「…………」  「鼎」  「……!」 名を呼ばれて、鼎ははっと顔を上げた。 鋭い声とは裏腹に、禎織は悲しげな目で鼎を見つめていた。  「あ……」 鼎は我に返ったように小さく声を上げると、後ろへ下がって平伏した。  「も、申し訳御座いませぬ。恩知らずな事を申しました」  「…………」  「お許しください」  「顔を、上げろ」 禎織は言ったが、鼎は平伏したまま動こうとしなかった。 そんな彼の頑なさが悲しくも腹立たしく、禎織は思わずその肩を掴んだ。  「鼎!」 鼎はその声に怯えたように体を竦め、初めて禎織の目を見た。 切れ長の黒い瞳が、禎織を映して揺れた。 この目が最後に自分を映したのは、いつのことだったか。 そしてその目が自分を見ようとしなくなって、もうどれほどの時が経ったのか──  「鼎。俺は、お前を苦しめておるだけなのか……?」  「禎織さま……」 その薄い唇に名を呼ばれた途端、長く閉じこめて来た想いが一気に沸騰するかのような感覚が襲った。 しかし、肩を掴んだ手に力を込めるよりも少しだけ早く、鼎の腕が禎織の胸をやんわりと押し返した。  「……!」  「拙息を気遣うてわざわざ家までご足労頂き、誠に恐縮に御座います。進之丞には良う言い聞かせますゆえ。……有り難う存じます」 鼎は禎織の顔から再び目を逸らし、出来るだけ感情を込めずに通り一辺倒の口上を述べた。 けれどその態度は、禎織の感情を冷ますどころかかえって煽っただけだった。  「そがぁなん、口実じゃ」  「え、っ」  「俺はお前に会いに来たんじゃ」  「──禎織さま……!」 解かれた手を再び伸ばし、その腕を掴む。 そして今度は押し返す間を与えずに、そのまま引き寄せた。  「鼎……」 あれから何年経ったのか。 もう数えてすらいない。 それでも今この腕に落ちたその体は、あの頃と何も変わっていないように思えた。 むしろ、あの頃よりずっと鮮やかで艶めかしい感触のように感じられた。 それはきっと互いに年月を経た所為でもあり、心の奥底に仕舞い込んでいた未練がましい想いの所為でもあったろう。 障子の隙間から吹き込んだ温い風が、芯の残り少なくなった蝋燭の弱々しい灯りを音もなく消した。 もう、想いを留めることは出来なかった。