新緑の候、風薫る五月というが、今年の大坂の初夏は昨年より暑い。
中之島と三郷の町に架かる橋は強い日差しに照らされて、その熱が足裏から伝わって来る気がした。
大坂と芸州は気温はさほど変わらないように思うが、いかんせんこちらは湿度が高い。

その所為か橋を渡りきる頃には首から胸元が汗ばんできて、貴之介は思わず衿元を緩めて風を入れた。
日陰を求めて商家の連なる路地に入ろうとすると、行く手の家の裏口から男と女がそろりと出てきた。
三十路を少し過ぎたくらいの女はその店の内儀かそこそこ良い身なりをしていたが、若い男は派手な格好をしており、どう見てもお店者たなものには見えなかった。
そんな二人が周囲を憚るように路地に出てきたので、貴之介は思わず家と家の間に大きい身体を隠した。



火縁かえんの娘 〜 大坂西町奉行所盗賊改方 石黒多聞捕物帖 〜

 「何や気がかりなことがあれば、またいつでも呼んでください」  「……あの、」  「何か?」  「主人が、三日後から京へ所用に出掛けるのです」  「したら、数日がかりですな。お心細いことでおましょうな」  「ええ、せやから……」  「承知しました。ほなら毎晩見廻りに参じます」  「……中に、声を掛けてくださいね。必ず」  「はい。ご安心を」 二人の会話と言葉遣いから察するに、男は奉行所の手の者か。 しかし女の『声を掛けて』と男の『ご安心を』という言葉には色艶があり、単なる商家の内儀と十手持ちの会話には聞こえなかった。 何より女が作って見せたしなは、貴之介にすらも分かるほどあからさまだった。 (こりゃ、とんだ場面に出くわしてしもうた。あいつがこっちに来たら俺、どがぁしよう……) こっちへ来るな、という貴之介の念が通じたかどうかはともかく、男は貴之介の隠れている方とは反対側へ背を向け、路地を早足で駆け抜けて行った。 女はその背が路地を曲がると周囲をくるりと見回して、それから戸の向こうへ消えた。 貴之介は女が家の中に入ったのを見届けてからほっとため息をつくと、自分もそそくさと逃げるようにその路地を出た。再び日の照りつける大通りに出ると、 御かんざし仕入所 あけぼの屋治平衛 と書かれた看板のぶら下がる店先に、先程の女が姿を見せた。 その女に向かって店先の小僧が頭を下げたので、やはり女はこの店の内儀なのであろう。 さほど大きい店構えでも無いが、身なりの良い女客が数人居た。 愛想良く客をあしらい、店の者にてきぱきと話しかける様子は、先刻裏口に居た、どこか秘密めいた艶を帯びた女とは別人に見えた。 (はあ、人は見かけじゃ分からんもんじゃのう……) 思いがけず知ってしまった曙屋内儀の秘密は、貴之介の喉の奥にざらついた苦みと乾きを与えた。