この心と身体は、全てあの男のものだ。
それはもう、生まれたときから決まっていたことのような気がする。

それでも時折、彼を無性に裏切りたくなるのは
どうしたって、死ぬまで、彼の側を離れられない自分にとって
それが必要だったからだ。

──自分が彼のものであることを、感じているために。



囚う蛍

虫の声に混ざって、遠くに鐘の音が聞こえる。 その音が消えると、妓はわずかに顔を上げた。  「……旦那、鐘が」  「ああ、聞こえた」  「帰らんで、ええの。いつもは──」 いつも夜四ツ(22時)には帰るはずの男は、言いさした妓の唇を塞ぐと同時に一層深くその中へ腰を沈めた。 妓はしなやかな背中を思い切り反らせて、男の重みに喘いだ。  「はぁ、っ……」  「ここで、やめられるかよ」  「ほな……んっ、今日は、朝まで居って、くれはるの……?」  「……いや、」 妓の強請るような問いに小さく首を振った男は、その後はただ黙って腰を使った。 そして事を終えると、まだ汗ばむ逞しい身体にそのまま着物を羽織って廓を後にした。 蒸し暑い夜の風は粘るような熱気を孕んで、汗を乾かすどころかさらに肌を熱くした。 その所為で、雑に合わせた胸元から女の匂いが立ちのぼってくる。 白粉と香の噎せ返るような甘さと、そして汗と情事のにおい。 ──『裏切り』の匂い。 女を抱くために、わざわざ遠出などしない。 手身近な距離であればあるほど、裏切りの匂いは一層強い甘みを帯びる。 その匂いに今し方裏切ってきた男のことを想い、そして最後は結局その男の元へ戻るしかない自分を思うと、言い様もない背徳感がぞくりと背筋を舐めた。 彼が起きているといい、そう思う。 起きていれば、女を抱いたばかりのこの手で彼を抱ける。 我儘で淫らなあの身体に彼を裏切ったこの身体を重ね、それでも自分は彼のものだと実感する瞬間。 束縛と裏切りに塗れた身体が、狂おしいほどの情愛に呑み込まれていくあの瞬間が、堪らない。 (……我ながら、頭イッてる) 万太郎は自嘲に頬を歪めつつ、真夜中の日本橋を渡った。 廓から和泉屋までは、夏の情事の汗が引く間も無いほどの距離だった。 庭の井戸で素裸になって水を被ると、肌だけはさっぱりとした。 浴衣を羽織ってすぐ、母屋の一番奥へ向かう。 その先にほのかな灯りが見えた途端、淫靡な期待と裏切りの痛みに胸が鳴った。  「遅い」 蚊帳の中から、低い声がした。 同時に、酒と煙草の香りが鼻を過ぎる。 薄物を羽織った端正な身体の線が、行燈の光にほんのりと透けて見える。 蒸し暑い部屋の中で浴衣の片肌を脱いだその姿に、万太郎は思わず喉を鳴らした。  「……起きとったか」 しれっと言うと、京治は煙を吐き出しながら口の端で笑った。  「分かっとって、来たんやろ」  「…………」  「こない蒸し暑うては、眠れんわ」 京治は煙管を灰吹きに叩きつけて、不機嫌に言った。  「何処行っとった」  「ああ、待たせて悪かった」 万太郎はその問いには答えず蚊帳の中に入ると、緩く帯の解けた京治の腰を抱こうと腕を伸ばした。 こんなやりとりは別に初めてでもなんでもない。 そしてその会話はいつも、前触れなく始まる情事に遮られ──る、はずだった。 しかし京治は万太郎の腕を弾いて立ち上がると、その衿首を乱暴に掴んだ。  「来い」  「えっ……」 京治は自分より一回りも大きい万太郎を縁側へ引きずり出し、そのまま中庭に蹴落とした。 痛みを感じるのと同時に目の前が見えなくなって、万太郎は一瞬何が起きたのか分からなかった。 酒を掛けられたのだと気づいたのは、京治の手に徳利が見えてからだった。  「京……」  「もっぺん水被って、その白粉の匂い落としてこい。臭うてかなわん」 京治はそれだけ言って、再び蚊帳の中に入った。 こちらに向けた背が、明らかに怒っている。 部屋に帰れとは言わず、洗ってもう一度出直せと言うのが彼らしいと言えば彼らしいと思った。 けれど、こんなことは初めてじゃないのに、初めて自分を拒んだ京治に万太郎はただ呆然とその背を見つめていた。  「京、」  「早う言うた通りせんかい」  「いや、……お前、何を怒っとんの」  「……臭いて、言うたやろ」  「せやからって、何もここまですることないやろうが」 さすがに不満を露わにした万太郎に、京治は小さくため息をついた。  「まだ、足らんか。万太郎」  「……は?」 思わず聞き返すと、背けた背中が苛ついたように揺れた。 そしてその向こうから聞こえた、相変わらず不機嫌な声に万太郎は再び呆然となった。  「そろそろいい加減諦めて、俺に年貢を納めろや」 (──今更何を言いやがるのか、こいつは) 呆れてものも言えないとはこのことだ。 思わず、笑ってしまった。  「……なにがおかしい」 押し殺したような笑い声に京治がやっと振り向くと、目の前に蛇の目の刺青があった。 驚いて身を引こうとした京治を、万太郎はそのまま押し倒した。  「!」  「このまま、抱くぞ」  「な……手前ェ、俺の言うたこと、」  「やかましい」 不満を言う唇を噛みつかんばかりに塞いで、激しく舌を吸いながら帯を抜く。 簡単に肌蹴た浴衣の下の肌は酒と暑気に火照って、いつもより熱かった。  「ふっ……う、」 絡めた舌が震えて、合わせた唇の端から苦しげな喘ぎが漏れた。 それでも何度も重ね直しながら長い口づけを交わす間に、京治の身体が溶けるように開いていくのが分かった。  「ん、ぁ……っ、や……嫌や、酒臭い」  「お互い様や」  「あか、ん、べたべたする……」  「手前の所為やろが」 万太郎は京治が下帯を付けていないことに気づいて笑うと、その素肌を指先で玩んだ。  「俺を待ってたんやろ?──ほれ」  「あ、っ……!」 嬌声を上げてから、京治ははっと唇に手の甲を当てた。 激しい愛撫を求めながらいつも必死で声を押さえつける彼の、その顔が好い。 だから、声が出そうなほど激しく、強い刺激を与えてやる。 脚の間をまさぐる手を止めないまま、もう片方の手で厚い胸の肉を鷲掴みにする。 その頂点をわざと音を立てて吸ってやると、引き攣るような声と共に掌の中の熱が震えた。  「ッ、……っ──はぁ、ア、」 びくびくと跳ねる肌の、彼にだけ分かる場所にいくつもの紅い痕を遺していく。 どんなに激しく抱いても翌朝には『御頭』の顔に戻る彼の、身体に残したその傷痕を、自分もまた『小頭』の顔をしながら密やかに思い浮かべるのだ。 そんな自分は、きっとどこか狂ってしまっているのだろう。 この従順なだけの身体と、他にどこにも行きようの無い想いに囚われて、裏切りと歪んだ愉悦を重ねてきた。 そして今も触れるたびに、深く、強く、軋むほどに絆されていく。 浅く早くなる呼吸と、指先に感じる硬さと熱が、彼の限界を伝えてくる。 あともう少し、と思ったとき、不意に京治が身体を起こした。  「も、いい……」  「……え?」  「女ァ、抱いて来たんやろ」  「!」 挑むような視線を寄越す潤んだ目の奥で、何かが揺れた。  「答えろ」 こう言った時の京治は、絶対に嘘を許さない。 こんなことを聞かれたのは初めてで戸惑いはあったが、素直に答えた。  「ああ」  「…………」 京治は答えを聞くなり、万太郎の脚の間に手を突っ込んだ。 明らかに怒りのこもったその手に、万太郎は思わず声を上げた。  「!いっ……何を、お前、」  「煩い」 京治は不機嫌に言い放つと、一瞬躊躇ったあとで、手の中の熱を唇に含んだ。 そこに生温かい舌の感触を感じた瞬間、万太郎は咄嗟に自分の口を手で塞ぎ声を堪えた。 今まで京治に口淫などさせたことはない。 それが今、濡れた唇から紅い舌を覗かせ陶然と男に舐りついている。 万太郎は眼前の光景に呆然となりながらも、ほとんど初めて受ける京治の愛撫に身を任せた。 ふと見上げてきた目が、窺うように瞬いた。 艶めかしくもどこか子供のような表情を見せた目元を優しく撫でて、そのまま少し、顔を引き寄せる。 京治は一瞬苦しげな顔をしたが、それでも口を大きく開いて張り詰めた熱を深く咥えこんだ。 眉を寄せながら懸命に愛撫を続ける姿に、胸が痛いほど鼓動が速くなる。 (なんちゅう顔、しよる……) 万太郎は自分の心臓の音を耳元で聞いているかのような気持ちで、その顔を見つめた。  「……いっつも、俺ばっかりやから……せやさけお前、足りん、のやろ?」  「え……?」  「せやから……」 京治はそこで言葉を切ると、枕元の小さな陶器の瓶に手を伸ばした。 瓶の中の香油を目の前に屹立するそれにたっぷりと塗りつけて、その手を自らの尻の間に滑らせる。 その仕草がなんとも淫らで、そして健気で、万太郎は思わず腕を伸ばしたが、京治はそれを押し返すようにして万太郎を後ろへ倒した。 そして厚い肩を掴んだまま万太郎の腰を跨ぐと、その上へゆっくりと腰を沈めた。  「!」  「は、あ……」 全てを自分の内に収め、大きく息を吐いて身体を震わせた京治は、同じように、強い圧迫感に襲われて息を呑んだ万太郎に口づけて言った。  「……俺で、いって。──何遍でも、足りる、まで」  「京、」  「せやから、もう、俺だけに、しといてんか……」 京治は切なげなため息と共に囁くと、少しずつ腰を動かし始めた。 ぬるりとした感触に促された律動が、次第に大きくなっていく。  「っ……、はぁ、──あ、っ……」  「…………」 固く閉じた目の上で、乱れた髪が揺れる。 腰を落とす度にぎりぎりまで高めたはずの熱がびくんと震えて、その刺激を堪えるようにくっと唇を噛む。 万太郎は自分の上で喘ぐ京治のそんな姿に、胸を締め付けられるような思いがした。 自分の手のままにさんざ淫らになってしまった肉体は、最早この手でなければ満足しない。 そうしてこの手に馴染んだ身体だけは、自分の意のままという意味では、自分のものと言えるかも知れない。 けれどその心は、顔も知らない女が永遠に持ち去ってしまったのだと思っていた。 だからこの心が彼の手に墜ちたとき、彼の心を欲してはならないと思った。 彼は自分が己のものであることを疑わずに、欲しいだけこの手を欲しがればいい。 自分が彼を欲しさえなければ、そこに背徳や罪悪は存在しない。 何故ならもうこの心と身体は紛れもなく、彼のものなのだから──  「……阿呆やな」 万太郎は、呆れるほどの愛おしさを込めて言った。 京治はその言葉に一瞬眉を顰めたが、再びその熱に触れられて掠れた悲鳴を上げた。  「!あっ……ふ、あァ……!」  「お前は俺の、何を、見てた」 言いざまもう片方の手で尻を掴んで強く引き寄せ、容赦なく下から突き上げた。  「あ……!っ、は……あァ、や……」  「お前を初めて抱いた、時から、俺はずっと、……お前のモンやぞ」  「──なん、で……?」  「…………」 汗と涙に濡れた顔でそう問うた京治を、万太郎は苦笑しつつ身体を起こして抱きしめた。 もう何年もこんな関係を続けてきて、今なおこの身体の上で嬌態を晒しながら、そんなことを訊くのか。 呆れ半分に思いながらそれでも、今宵のその全ての言動から、彼が何を欲しがっているのかはもう分かっていた。 ──分かってしまう自分は、やはり狂ってしまっているのだろう。 この男に。  「……京治。お前を、愛してる」  「!」  「せやけどお前が、俺に惚れることは無いと思うてた。せやから……」 その先の言葉を、京治は敢えて自分の口の中へ呑み込んだ。 そして唇を離すと、満足そうに笑って言った。  「お前こそ、俺の、何を見てた……?」  「え……」  「俺は、……そない、器用やないよ」  「…………」  「早う言わんかい、阿呆が」  「なんや、俺が悪いんか」  「そおや」  「……そうか。──そうかもしれんな」 万太郎は小さくため息をついて苦く笑うと、身体を繋いだまま再び京治を組み敷いた。  「ちょっと、堪えてろ」  「!あ、……?」 もう溶けそうな京治の熱の根元を指できつく締め、びくりと竦んだ身体の更に奥へと腰を沈める。 彼の中がもっと深い場所へ誘うように蠢いて、それに誘われるまま汗ばんだ肌を重ねた。 ──これは、恋であってはならない。 彼の心はもうこの世に無いと思っていたから、そう思わないと、いつもと同じ顔で彼を抱くことは出来なかった。 だから、この身も心も彼のものであろうと決めた。 それでも彼を裏切らずに居られなかったのは、そんな言い訳を真実にするためだった。 裏切りを重ねたこの手の中で、彼が果てるあの瞬間。 何度裏切ろうと、触れるたびに心が歪んでいっても、最後には全てが想いに呑み込まれるあの瞬間に、自分が彼のものであるという真実を感じられた。 けれどその苦くも甘い悦びに溺れるあまり、いつのまにか自分を見つめていた彼には気がつかなかったのか。 (……やっぱり、阿呆なのは俺の方か) 不器用、いや臆病なのか。 きっとそんな自分に業を煮やしたのであろう彼の心情を思うと、今更ながら胸を衝かれる。 そして今、この腕の中で激しく悶える彼の健気さが愛おしいと──そう思った瞬間に、鼻の奥が痛んだ。  「はあっ……は、ァ……あ、──んんっ、」 熱と、感情と、重ねた時間が、香と酒の甘い香りに満たされた蚊帳の中に沈殿していく。 京治は留められた自分の熱と、激しく突き上げてくる万太郎の熱にうかされるように、切なく苦しい喘ぎを繰り返した。  「達ってええぞ、京……」 万太郎は京治に我慢を強いていた手を離すと、濡れた身体を両腕で抱きしめた。  「!んっ──あ、……あああ、」 その途端に大きく震えた京治に引き込まれるようにして、万太郎もまた全ての力と感情をその中へ放した。  「……どないした」  「え……?」  「なみだ」 京治は気怠そうに腕を上げて、万太郎の目元を拭った。  「あ……」  「泣くほど、好かったか」  「……ああ」 茶化すような笑顔に頷こうとして、万太郎はふと言葉を飲み込むとその手を取って唇を寄せた。  「お前があんまり可愛いて、泣けた」  「……!」 そう言って上目遣いに見つめると、赤い顔で睨みつけられた。  「……今度、他所でなんやしてきたら、殺すからな」  「ぶっ」 くぐもった声に思わず噴き出すと、どん、と拳で脇腹を刺された。  「冗談やないぞ」  「分かってる。……もう、無いよ」  「……万太郎」  「うん?」  「お前は、俺のもんや。覚えとけ」  「……それも、分かってる」  「なら、いい」 京治は言いたいだけ言うと、目を閉じてすぐに寝息を立てた。 満足したらすぐに寝てしまうのはいつものことであったけれど、今夜もいつもと変わらないその有り様が、嬉しかった。 自分たちはこのままで、だけどもう言い訳になど縋ることなく共に生きていける。 そう言われた気がして、嬉しかった。 肌を湿らせた汗を拭いてやってからその上に浴衣を掛け、灯りを消す。 これもまた、いつものこと──と思ったとき、視界の端で何かが光った。  「蛍、か……」 蚊帳に止まって不安定に光る点を暫し見つめていると、なにやら自分が虫籠の中に居るような気がした。 やがて蛍は、ついとそこを離れて飛んだ。 あの蛍は、もしかしてずっとここに居たんだろうか。 不意にそんなことを思った。 その小さな光は、きっとそこに在った。 きっと自分は気づかずに、ひとり虫籠の中で蠢いていたのだろう。 今も自分は確かにその中に居るけれど、多分もう此処から逃げることは無い。 ──そんな必要は、もう無いのだ。 万太郎は夜の闇に描かれる光の弧をぼんやりと見つめながら、蚊帳の隙間をそっと閉じた。