湿気を孕んだ重い空気が、からみつくような夕暮れだった。
傘屋以外はさっさと店じまいをしてしまった寂しい商家街の軒先でしばしの雨宿りをしていると、ふと向こうに人の気配を感じた。
湿気の中に微かに混じった香りで、女と分かった。
だから出来るだけ顔を動かさずに視線だけをそっと向けると、傘を持った小柄な娘が伺うようにこちらを見ていた。

娘は、ここから何件か先にある、良く寄る菓子屋の娘だった。
言葉を交わしたことはないが、何度か顔を見かけた覚えがある。

 「雨宿りされてはるんが見えたんで……」
娘ははにかんだように言うと、近寄ってきて傘を差しだした。
 「……これを、拙者に?」
ちょっと驚いて思わず堅い言葉でそう訊くと、娘は自分の顔をしばし見上げた後で小さく噴き出し、あたりを見回す仕草をして見せた。
 「他にどなたもおられまへん」
 「……そ、そうじゃな」
顔が熱くなるのを感じながら傘を受け取る。
傘は一本しかなかったから、自然と彼女を隣に入れる形になった。

自分の肩より低い小柄な彼女の肩が濡れないように、そっと傘を傾ける。
しかしその途端傘の上に溜まった雨粒が彼女の方へぱたぱたっと零れ落ちてその足下に跳ねてしまった。
決まらないなあ、と我ながら呆れたものの、彼女がそれを避けるように自分の方へ身を寄せてきたことに思わず胸がときめいた。

彼女の家である菓子屋の前まで来たところで足を止めると、彼女は黒目がちな瞳で再び自分を見上げた。
 「お急ぎやなかったら、寄ってかれませんか」
 「え、」
 「お菓子、お好きなんでしょう?」
 「あ……」

さぞかし嬉しそうな顔をしてしまったんだろう。
娘は噴き出したいのを堪えるような顔をして、小さく袖を引いた。 



紫陽花

貴之介は腰から刀を外すと、濡れた鞘を袖で拭おうとした。 娘はそれを見て、慌てて止めた。  「あきません、お召し物が濡れます」  「いや、こがん水滴くらい……」  「あきません」 娘はぴしっと言い放つと、すぐに懐紙を持ってきてくれた。  「……かたじけない」 懐紙など本当は自分が持っていなくてはいけない物なのだが、この商家の娘の方が余程武家の者らしいと、そんなことを思って自らに呆れつつ彼女に感心してしまった。  「お侍様は、中之島の御方ですか」  「ああ、これは。それがしは芸州蔵屋敷の益子と申します。──あの、貴女は……」 そう言うと、彼女は声を上げて笑い出した。 大坂に出てきて二年、この土地では自分たち西国の侍は田舎者と思われていることを知っている貴之介は、顔を紅くしながら彼女にもらった懐紙で汗を拭った。  「……あの……俺、なんぞおかしなこと言うたでしょうか」  「いえ、ごめんなさい。そないご丁寧なお武家さん、初めてで」  「…………」  「益子さま、どうぞお気楽に。私はしのと言います」 どう見ても年下の彼女に諭されるように言われ、貴之介は思わずぐっと胸を張った。  「……おしのどの」  「はい」  「益子様などと呼ばれると気楽にも出来ん。せめて名で呼んでくれんか」  「…………」  「どうした」  「あの、下のお名を聞いておりません」  「あ、」 俺の方が年上なのにと威勢を張ってみたところで、どうにも決まらない。 貴之介は自分の間抜けぶりが可笑しくなってきて、堪えきれずに笑い出した。 しのはそんな貴之介を見て、少し驚いたように目を瞠った。  「益子さま?」  「──貴之介じゃ。貴之介」  「貴之介さま」  「うん」 そう言いながらもなかなか笑いの収まらない貴之介を見て可笑しくなったのか、しのも一緒になってまた笑い出した。 本当に、良く笑う娘だ。 別に何か可笑しいことを言ったわけでもしたわけでも無いのに、こんなに笑える自分たちが可笑しくてまた、新たな笑いがこみ上げてくる。 しのはとうとう涙まで浮かべて、袂で目元を拭うとようやく笑いを収めた。  「ああ、こない笑ったん、ひさしぶり」  「俺もじゃ。……それにしても俺ら、何がそがん可笑しかったんじゃろうかの」  「貴之介さまが、──」 しのはそこで言葉を切ると、窺うように貴之介を見た。  「俺が、なんじゃ」  「……怒らへんて、約束してくれます?」  「?」  「ね?」 訳が分からないまま、促されて頷いてしまった。 するとしのは、再びこみ上げた笑いを隠すように口元を袂で押さえながら、小さく言った。  「貴之介さまが、あまりにおかわいらしいから」  「……!」 貴之介が少し気色ばんだのを覚ったのか、しのは笑いを引っ込め、茶を入れてくると言ってそそくさと裏へ入っていってしまった。 今まで可愛いなどと、それも女から言われたことの無かった貴之介は、どういう顔をしたら良いのか分からず呆然とその華奢な背を見つめていた。  「あの、さっきはごめんなさい。失礼なことを言うてしもうて……」 貴之介がいつも買い求めていくまんじゅうと茶を出しながら、しのは少ししょんぼりとして言った。  「……ええよ」  「でも、怒ってはった」  「いや──どがあ顔したらええもんか……俺の何処がどう可愛いんか、分からんで。怒っとった訳じゃあない」  「……そういう、とこです」  「そういうて、どういう?」  「うーん……ぜんぶ?」  「俺、全部可愛いんか?」  「ええ」 しのは、そう言われてかすかに顔を赤らめつつまんじゅうを頬張る貴之介を見て、今度は少し大人びた笑みを見せた。 大坂生まれでこの地を出たことが無いというしのに、貴之介は故郷芸州や江戸のことを話して聞かせた。 そうして居るうちに日は暮れ、雨の音ももうしなくなっていた。  「……雨、止んだな」  「あ、ほんまや」  「楽しゅうて時を忘れてしもうたが、こがん遅くまでお邪魔してすまんかった」  「いいえ、私がお誘いしたんやし」 貴之介は立ち上がって刀を腰に差しながらふと、今更のように店内を見回して訊ねた。  「……そういや、主人は」  「京へ仕入れに出ておりまして、明後日まで帰って来えへんのです。……一人で雨の音を聞いとったらなんや寂しゅうなって、ほしたら貴之介さまのお姿が見えて」  「ほうじゃったんか。……この家、今おしのさん一人なんか?」  「ええ」  「物騒なことじゃな。戸締まりに気をつけるんじゃぞ」  「はい」 精一杯威厳を込めてそう言った貴之介に、しのは少しおどけたように笑って返事をした。 その可愛らしい笑顔が、藩邸に帰っても床についても、貴之介の頭を離れなかった。