雨上がりの空気はすっきりとして、心地よいと感じる程度に冷たい。
池には雲間に見えた月が映り、雨露を乗せた紫陽花が月光を弾いて、庭中がきらきらと光っていた。
それはとても幻想的で、子供心にこんな美しい光景があるものかと感動したのを覚えている。

 「鏡花水月、やな」
隣に座った清太郎せいたろうが、ぽつりと呟いた。
 「きょ、きょう……?」
 「……なんもかも偽モンやっちゅうことや」
清太郎は嘘とも本当ともつかぬ事を言うと、つまらなそうに庭から目を背けため息をついた。
 「はあ、お前はええよな」
 「えっ」
初めてそんなことを言われて、驚きのあまりその顔を見つめてしまった。
雨上がりの冴え冴えと冷たい空気と良く似た、すっきりつるりとして整った顔を。

 「だってお前は、行こうと思うたらどこにだって行けるやん」
 「え……」
 「羨ましいよ」
 「そんな」
その言葉に更に驚いたのと、強い不安を感じて、思わず彼の手を強く握りしめる。
 「他のどこかに行こうやなんて、思うはずがあれへん。それに俺は、他に行くとこなんか」
 「…………」
 「俺はどこにも行きまへん。ずっと此処に居させてください」
そう言って力を込めた手を、彼は優しくぽんぽんと叩いた。
 「はァ、つまらんことを言うた。もう寝るわ」
 「清太郎さん」

自分の手の中から、清太郎の手が逃げるようにするりと離れた。
月明かりに浮かんだその顔は心許なく、そしてやはり冷たいまでに端正だった。



水無月の雨

ろくは、頬が濡れる感覚で目を覚ました。 それが雨漏りではなく自分の涙だったことに気づくのに、少し時間が掛かった。 久々に昔の夢など見た所為か。 ぼろ小屋のあちこちに出来た雨溜まりに、屋根板の隙間から射し込む月の光が映っている。 今しがた夢で見た、あの雨上がりの庭の風景とは大違いだな、と思わず苦笑が零れた。 他に行くところなどないのだと強く思ったのは、あれが三度目だった。 一度目は、大水で両親を亡くした時。 二度目は、寺に引き取られた時。 三度目は、あの家に奉公に出された時。 そして四度目が、今だ。 けれど次はもうないだろう。 六は軋む身体を起こして、ひとつため息をついた。 着たきりでぼろぼろの着物の袖から、腕に刻まれた青い二本線が覗く。 この腕を見るたびに、自分はここで人生を終えるのだと、どこか安堵と共に思う。 だからもう、他にいくところがない不安に怯えることもない。 そもそも自分は、生まれてくる必要などなかった男なのだ。 貧乏子沢山な農家の末っ子だった自分は、生まれたときから厄介者でしかなかった。 辛うじて六という名はもらったが、六月に生まれた六番目の子というだけで、それは名というより番号だった。 七歳の時、村が大水に襲われた。 生き残ったのは厄介者の自分一人だけだった。 独り残された現実と、すっかり変わってしまった村の光景を前に、多分死んだ方が楽だったと子供心にも思った。 かと言ってどうしたら死ねるのかも分からないままぼうっとしていたら、水が引いた頃に役人が来て、大坂のとある寺に連れて行かれた。 西龍寺というその寺には自分を含め五、六人の孤児が預けられた。 一人二人と里親や奉公先に引き取られていく中で、自分はまた一人だけ取り残された。 一番年少のくせに身体は一番大きかったために、使えない大飯喰らいは要らぬと敬遠されたのだ。 ここを追い出されたら他にいくところがないという無意識の恐怖から、掃除や雑用を進んでやった。 寺の者たちはそんな自分に優しくしてくれて、読み書きなども教えてくれた。 三年が経って十歳になり、自分はこのままここで坊主になるんだと思い始めた頃、寺を出て行くように言われた。 肌寒い雨の日、お店者と思しき中年の男に連れられ、寺を後にした。 思い返せば自分の人生は、あの大水に遭ったときから何かに流されるままだった。 だから常に、何処へ行っても、行き着くところがなかったのだと思う。 次に流された先は、大坂島之内は心斎橋にある梅屋呉服店の南支店、通称南大丸だった。 当時八歳だった長男清太郎の遊び相手になって欲しいと言われ、そんなことだけで飯を喰わせてくれるのかと拍子抜けしたが、やはりそんなうまい話などあるわけはなかった。 清太郎は、見目こそ老舗の大店の倅らしく上品で可愛らしかったがひどい癇癪持ちで、かつ狡賢く口が達者な子供だった。 両親はじめ大人の言うことを全く聞かず、店の者や子守りに対しては端から目下と見下して憚らない。 妹おのぶが生まれてからはその矛先がおのぶに向けられ、子供ゆえの容赦ない苛めに命すら危ぶまれたおのぶは親戚に預けられる羽目になった。 するとますます荒れた清太郎を持て余した両親は、これはもう寺にでも預けて一から躾けてもらうほかないと思い詰めた。 しかし外聞が良くないので出来ればミナミの外でと探したところ、薩摩堀に先の大水で孤児を預かった寺があると知った。 早速その寺を訪れた南大丸の主は、そこで清太郎と年の近い孤児──自分を見つけた。 身寄りも帰る場所もない、しかも男子。 玩具として与えるには大層都合が良かったのだろう。 貧乏農家の末っ子に生まれ、口減らし先さえなかった厄介者と言われて育った自分には、清太郎の理不尽さなど所詮お坊ちゃまのそれでしかなかった。 手加減知らずの暴力は辛かったが、自分の方が身体が大きく力もあったので半年経つ頃には怪我もしなくなった。 清太郎の面倒を一手に引き受けた自分を、主夫妻や店の皆はいつも気遣ってくれたし飯もたんと喰わしてくれた。 何より、またここを出されたら他にいくところがないという思いがあった。 だから耐えたし、耐えられた。 時が経ち清太郎もそれなりに成長すると、癇癖の強さは変わらなかったが無闇に暴力を振るうことはなくなった。 やがて自分の鬱屈を言葉にし始めた彼は、それを時折、弱音や愚痴、または怒りとして吐き出すようになった。 清太郎は、生まれた時から人生が決まっていたこと──店を継ぐしか他に道がないことを嘆いていたのだった。 彼の癇癪はその窮屈さに対する反発と、家を出て行こうと決心出来るほどの『他のなにか』が、見つからないことへの苛立ちの表れだった。 しかし反発すればするほど他に道などないことを思い知るばかりの清太郎は、ずっと迷い子のようでもあった。 そんな彼の本心を確かに知るのは、自分の他には居なかった。 そのことだけで、清太郎の側に居られた。 誰にも必要とされなかった自分を、清太郎だけが必要としてくれた。 自分だけに与えられる、理不尽と表裏一体の彼の弱さが愛おしくもあった。 だから他に行くところなど、ありようはずもない。 けれど───  「おい六、起きとっとか?」  「は、」 戸を叩く音とその声に、六は慌てて立ち上がり小屋の戸を開けた。 夜明け前の訪問者は、島役人の山田源八郎だった。  「喜べ、六。赦宥しゃゆう1ば決まったと」  「え、っ……」  「今日の昼には船ば着く。朝一番で、村ん連中に礼と別れば言うてきなっせ」 山田は、まるで我がことのように笑顔で言った。 しかし六は、喜ぶどころか怪訝な顔で首を捻った。 もしかしたらこれはまだ夢の続きなんじゃないかとさえ思った。  「なんかの間違いやありませんか。俺には、帰るとこなんかあれへんのですが」  「帰るとこん無かかモンにゃ赦宥は出らんよ。ちゃあんと、大坂の西龍寺ゆうとこから願いば出とるたい」  「えっ」  「ほんなこて、えかったの。ぬしゃ働きモンやったけん皆惜しがろうがの」  「…………」  「遅れたら大事やけん、巳の刻には浜へ来た方がよかばい」  「はあ、」 六は状況が良く飲み込めないまま頷いて、去って行く山田を呆然と見送った。 頬を撫でた風の冷たさに、少なくともこれが夢でないことだけは分かった。
POSTSCRIPT
[1] 赦宥(しゃゆう):

いわゆる恩赦(おんしゃ)のこと。江戸時代には天皇・上皇の即位や崩御、改元、将軍の子女誕生、世子の元服、将軍ないしはその近親の婚姻、将軍薨去などの際に、犯罪者の刑罰を軽減することがあった。

受刑者の恩赦適用は幕府の評定所によって行われたため、基本的には天領内で罪を犯した者のみが対象(幕府が恩赦を行うときは各藩にも倣うよう通達があったそうですが、強制力はなかったとのこと)で、また本文中にあるとおり身寄りのない(帰るところのない)者は対象外だったようです。