進之丞に誘われておのぶも宴に加わり、巳之吉の快気祝いは賑やかに行われた。
しばらくして善助がおのぶを迎えに来たが、もうすぐ二人が祝言を挙げると聞いた寅屋の皆は一緒に祝うべしと善助も宴に引き入れた。
こうなったらサチも呼べ、それなら伝八も、そしたら師匠の基実も、ということになって申介がふるかね町まで走り、寅屋の囲炉裏端にはいつものごとく当初の予定以上の客が集まった。
おのぶも善助も梅屋とはだいぶ違う寅屋の雰囲気に最初は驚いていたが、そこはまだ二人とも若いのですぐに打ち解けた。
気づけば月も大分高くなり、さすがにそろそろおいとまを、と言い出したおのぶを、進之丞はもう一度引き止めた。

 「ご寮さんが帰られる前に、皆に聞いて欲しいことがある」
そう言って進之丞は、六を寅屋に入れてやって欲しいと口火を切った。
 「皆、俺からもこの通りや。こいつならきっと火消が務まるんちゃうか思うて、最初に寅屋へ誘うたんは俺なんや」
巳之吉もまた、六のために口を添え頭を下げた。
場が静まった中で、皆の注目を受けた六は思わず顔を伏せようとしたが、そこをぐっと堪えて前を向き、言った。

 「──俺は、寅屋が好きです。せやから此処で、皆さんと一緒に働かせて下さい」

寅屋へ行きたいと思った理由や想いは様々言葉になって頭の中を渦巻いていたが、出て来た言葉はそれだけだった。
けれどどんなに言葉を並べても、結局はその一言に尽きるような気もした。

 「ただ俺は、その……ご存知かと思いますが、五年前にも一度お裁きを受けていて」
と、ようやく自分のことを話そうとして左袖を捲りかけた六の手を、辰五郎が止めた。
 「お前は、やってへんねやろ」
 「えっ……」
 「大体のことは巳之が訊かんでも話してくれた。御奉行様は最早お咎めなしと言うたそうやないか。つまりもう済んだ話ちゅうことやろ。お前が話したいなら話したらええけど、今お前が話したいのは昔のことか?それともこれからのことか?」
 「それは……こ、これからのこと、を、話したいです」
促されてそう言った六へ、辰五郎と、寅屋の皆が笑顔で頷いた。
 「よし。ほな頭、早速やけどこいつ参番に呉れへんか。右近が居らんなって手ェ足らんかったさけな」
 「あいや、ちょっと待った!」
辰五郎は六を自分の班に入れようとしたが、それに亀吉が異を唱えた。
 「こっちも藤野と右近が抜けたままなんでっせ。それにこいつァあの南大丸に居っただけあってよう目端が利きますねん。絶対帳場に向いとる」
 「ほな亀と同様に帳場と火消を兼ねたらええ。組は参番でええやろ」
いきなり六の取り合いを始めた二人に、誠が苦笑しながら言った。
そんな具合に、六が寅屋に入ることが正式に決まった。


 「──良かったね、六ちゃん」
宴を辞して店先へ出たおのぶは、見送りに出て来た六の左腕を労るように撫でて言った。
 「今日、来て良かった。お世話になった人たちにちゃんと御礼も言えたし、私らのことまで祝うてもろうて。……それに、六ちゃんの新たなはじまりの時に立ち合うことが出来たから」
 「いとさん……いや、ご寮さん、」
 「皆、ええ人たちやね。あの人らに出逢えたと思えば──巳之吉さんの言葉やないけど、終わり良ければすべて良しって思える気がする。でも、これは終わりやのうて始まりなのよね」
 「……はい」
 「私も頑張る。せやから六ちゃんも、紅寅さんが言わはったようにこれからは前を向いて頑張って。ウチにええ思い出はないかもしれへんけど、良かったらいつか顔を出してちょうだいね」
 「えっ……」
その言葉に驚き、目顔でいいんですかと訊ねた六へ、おのぶは笑顔で頷いて見せた。


あの長い長い一日から、まだふた月と経っていない。
その間に清太郎は大坂を去り、南大丸の女将となったおのぶの様子もすっかり変わって、そして自分は寅屋に入ることになった。
清太郎と決別し、ただひたすら虚しさだけを感じていたあの夜のことを思うと、まるで天と地が入れ替わったようだ。

織部は、お前は自分の意志で一歩を踏み出すことが出来たのだ、と言ってくれた。
その一歩を踏み出す力を呉れたのは、巳之吉や進之丞たち寅屋の皆と、織部だった。
けれど彼らは何か特別なことをした訳ではなく、各々の信念に基づいてすべきことをしただけだった。
そのことに気づいてからは、彼らへの感謝は強い憧憬と尊敬に代わった。
そして、自分もそういう男に成りたいと──強く成りたいと、いま心から思う。

織部があれほどに、裁きが必要なのだと言った理由が今はよく分かる。
罪を犯した者が正しく裁かれないということは、時を止めてしまうようなものなのだ。
五年前、清太郎とその周りの人々の時を止めてしまったこと、それがお前の罪なのだと奉行は断じた。
あのお裁きで、澱のように溜まっていた各々の恨みつらみが、悲しみや後悔が、止まっていた時と共に流れ始めた。
世良織部という侍はそれを知っていて、またあの奉行ならそれが出来ると信じていたのだ。


時が、想いが、流れて行く。
雨に流されるがごとく洗われ、そして潤された大地にはやがて新たな芽が芽吹く。

雨のごとく自分に降り注がれた想いと、流されていった感傷と、新たな予感にふと目を閉じる。
きっといつか、心斎橋の梅屋にも行くことが出来るだろうと、そう思えた。

 「──はい。きっと、いつか」

六は目を開けると、笑顔で言っておのぶに深く一礼した。
初めて見たような気がする六のそんな笑顔に、おのぶは目を潤ませて頷いた。



寅屋の宴は、もちろんまだ続いている。
中に戻った六を、すっかりご機嫌な巳之吉がちょいちょいと手招きした。
 「いとさん、大丈夫やったかな。こない遅うまで引き止めてもうて」
 「ああ……でも善助さんが一緒やし、もうお小言言われる立場でもありませんさけ」
 「はは、そうか。そうやったな。もうご寮さんやねんもんな」
巳之吉はそう言って笑うと、ひょいと銚子を取った。
六はその酌を受け、一息に飲み干した。
 「おお、お前やっぱイケる口やな。これからは毎晩一緒に飲めるな」
 「あっ六、お前も酒飲みか」
巳之吉は六の飲みっぷりを見て嬉しそうに言ったが、それを聞いた亀吉は思いきり眉を顰めた。
 「言うとくが、毎晩こないタダ酒飲めると思うなよ。盗み飲みは飯抜きやからな、覚えとけ」
 「えっ。いえ、俺はその、そこそこ飲めるとは思いますけど、別に飲まへんでも平気なんで……」
 「へっ、そうなんか」
六のその言葉に驚いた巳之吉に、剛庵が苦笑した。
 「酒量があるからって、お前みたいに毎晩水のように飲む奴なんかそう居ねえよ。こないだも言ったがそいつァ一歩進むと酒毒だからな、気を付けろよ」
 「ええっ」
 「お前、ここひと月酒やめて、体調はどうだい」
 「そういえば、身体ァ良う動いてるかも」
 「それァちゃんと飯を食ってるからさ。人は食わなきゃなんねえが、酒は飲まなくても生きていけるんだからな。折角助けてやった命なんだ、大事にして長生きしやがれ」
 「かなわんなあ。……でも、分かりました。その節はホンマ、ありがとうございました」
剛庵の話に巳之吉は頭を掻いたあとで、あらためて礼を述べた。
その素直さに目を細めつつ、巳之吉同様の酒飲みの京治は苦笑いをした。
 「まったく先生の言わはるとおりやが、耳が痛いな」
 「でも俺らァ命からがら火消をして、戻って来て酒を味わう瞬間に、ああ生きてて良かったァて思うんよなあ」
やはり酒飲みの進之丞がそんなことを言った。
 「まあ何事も過ぎたるは及ばざるが如しという話じゃ。先生かて飲むな言うてる訳じゃァないし、こがんして飲む酒の旨さも良う分かって居られるじゃろ」
そこで織部がまとめるように言って、まさに今酒を注がんとしていた剛庵を指して笑った。
囲炉裏端がどっと笑いに湧いて、六もまた声を上げて笑った。

こんな風に大勢で酒を飲んで、大声で笑って。
そんな日が来るなんて、大坂に戻って来たときは夢にも思わなかった──そう思ったら、清太郎のことがふと頭に浮かんだ。
彼は今頃、見知らぬ地でどうしているだろうか……

 「清太郎も、いつかこないして笑える日がくるとええな」
 「えっ」
 「お前の笑う顔見てたら、ふっとそないなこと思うた」
巳之吉はそう言って、六の顔を指さして小さく笑った。
巳之吉がそうして、今自分と同じことを思っていたのが、六には嬉しかった。
 「……きっと、きますよ」
 「そやな。きっと、くるよな」
 「はい」
六は願いを込めて頷いて、囲炉裏端を囲む皆の顔を眺めた。
今また、仙太があれほどに寅屋でのひとときを懐かしむ気持ちが、進之丞たちを慕う思いが、分かる気がした。
仙太や佐吉に、明日から自分は寅屋に行くのだという話をしたらどんな顔をするだろう。

 「せやけど、あれで良かったんかな……」
 「うん?」
 「いや俺、寅屋が好きやからここで働きたいて、それしか言うてへんので……もっとその、火消になる覚悟とか、色々考えとったんですけど」
 「はっは。そないな口上は要らん要らん」
 「へっ」
巳之吉に一笑に付されて、六は思わず眉を寄せた。
 「覚悟なんていくら決めても、いざ火の前に出たら誰かてびびる。それよりお前が寅屋を好きやと言うてくれたことの方が大事や。信じられへん奴に命預けることなんか、出来へんやろ?」
 「巳之さん……」
 「それよかお前、亀さんの人使いの荒さを覚悟しといた方がええで。ウチの御老中様は『透かしの文吉』並に地獄耳で千里眼、その上手ェが早いわ口は悪いわ、挙げ句にあない可愛いかみさんが居るし」
 「巳之てめえ!ウチのかみさんは可愛いだけやない、働き者で気性もええんやぞ」
 「こら亀、盛大にのろけよって。あんまり調子のっとると、お前の昔の話すんぞ」
 「あっ、京治の御頭、そいつはご勘弁を」
六の小さな後悔は、巳之吉と亀吉の相変わらずなやり取りと、京治のいつものいけずによってあっという間に賑やかな笑いの中に消えた。
六も一緒になって笑いながら、清太郎もいつかきっと、と心の片隅でもう一度願った。


清太郎は、恨むために自分を忘れないと言った。
おのぶや善助もまた、恨み憎しみが和らいだとしても清太郎を完全に忘れることなどないと思う。
自分や巳之吉も、自分たちを傷つけた清太郎のことを、折に触れこうして思い出すのだろう。

その記憶は、時々痛みや後悔を伴うのかも知れない。
けれどそれも止むことなく積み重なっていく記憶に過去へと追いやられ、いずれは感覚や感情を伴わないものになっていくのだろう。
櫻井が言ったように、そうして人は傷や痛みを癒しながら──それでも、記憶の片隅で繋がりながら先の日々を生きていくのだろう。

そんな風に清太郎を、彼と生きた日々を覚えていよう。
そしてこれからを生きていこうと、六は新たな仲間たちの笑顔を見つめながら思った。