その日、和尚は初めて京町橋の家を訪れた。
道場の他には台所と客間、それに居室が三部屋あるだけのこぢんまりとした家で、二階の仏間には進之丞の両親の他、この日のために織部の母綾と右近の両親の位牌を新たに祀ってあった。
つまりこの家に住む三人の男たちには、もう家族は無い。
そんな三人が共に暮らすこの家を大切にしていることは、男所帯とは思えないほどよく手入れされているのを見れば分かった。

和尚は仏壇の前に腰を下ろすと、じっと目の前の位牌を見つめた。
仏壇の前に端座した和尚の後ろに、黒羽織を着用した織部と右近、そして珍しく袴を着けた進之丞が並んで座った。
しかし和尚はなかなか経を始めず、黙って仏壇を見つめている。

鼎が死んで、十七年が経つ。
鼎の位牌の横には、禎織の位牌が並べられている。
今その仏前にまみえた和尚の心中を思い、進之丞と織部は自分たちもただ黙ってその丸い背中を見つめていた。

やがて静かに、経が始められた。
空気を震わせるような和尚の声が滔々と部屋を満たし、時折鈴の音がその中を吹き抜けるように鳴った。
これは遺された者が自分たちのために行う儀式と分かってはいる。
それでもその声が、思いが、どうか父に届くようにと進之丞は閉じた瞼の裏に涙を堪えながら祈った。

 「和尚様、今日はホンマにありがとうございました」
進之丞は手ずから入れた茶を和尚に供し、法事の礼を述べた。
長い経を終えた和尚は少し苦しげな顔で頷くと、その茶を飲んでからやっと声を出した。
 「いや、こちらこそや。こないな機会をもらえて、良かった」
和尚はそう言って、自分を気遣うように見つめている進之丞と、織部と右近の主従を見遣った。
 「ところでここだけの話な。ここにおわす仏さんは、おぬしらを救うてなどはくれぬぞ」
 「……へっ!?」
和尚がやにわに口にした言葉に、三人は目を丸くした。
 「もしおぬしらを救うとすれば、それはおぬしらが仏さんを通して己の来し方を思い、感謝することで得るものや。すなわち、いま己が生きて此処に居るという実感に他ならん。神仏に祈る思いの強さは天に届くのではのうて、その思いや願いの強さを自ら実感し、行動に変えて初めて叶うのや」
 「和尚様……」
 「おぬしらに今更言うことでもないけどな」
和尚はそう言ってくすりと笑うと、ぽんと膝を叩いた。
 「さて、ちとゆっくりしてもうたな。そろそろ行こか」
 「あっ、和尚様……あの、しんどいようならこのまま寺にお送りしますが」
気遣うように訊いた進之丞へ、和尚は笑顔を作って首を振った。
それでも立ち上がった途端にふらついた和尚は、足が痺れたなどと見え透いた誤魔化しをしたが、明らかに疲れが見えていた。
しかしこれが最後の機会だということは進之丞も分かっていたから、さりげなく和尚に手を貸して階段を降りた。
玄関先には既に織部が用意した駕籠が待っていて、和尚はそれに乗り込み初めて寅屋を訪れた。


 「おお、亥次殿やないか。しばらく見んうちに爺ィになったのう」
店先で出迎えた亥次を見るなり、和尚は開口一番そんなことを言って笑った。
寅屋の隠居亥次の実家・竹屋は西龍寺の檀家であるため亥次は和尚とは古くから旧知の間柄であったが、藤村家の菩提寺は別なので西龍寺にはすっかり無沙汰をしてしまっていた。
今日、和尚を寅屋に迎えるにあたって初めてその病状を聞いた亥次は、記憶の中の和尚と随分違う顔を見て内心驚きつつ、努めて笑顔を作った。
 「そらこちらの台詞ですわ。儂が爺ィなら、和尚様はもう棺桶に片脚突っ込んだはりますやろ」
亥次の洒落にならない物言いに一同は青ざめたが、和尚は今日初めて声を上げて笑った。
 「はっはっは。その通りや」
 「今日はちょいとその片脚を浮世に戻して、ゆるりとしてってくださいまし」
 「ははは、そないさせてもらおか」
和尚は楽しげに笑って頷くと、戯けたようにちょいと片脚を上げて、寅屋の敷居を跨いだ。
そして框の前で、六が手を差し出した。
 「和尚様、どうぞ」
 「おお、」
雨寅の火消半纏を着た六に和尚は目を瞠り、その顔を見上げた。
 「立派なもんや。よう似合うとる」
 「……ありがとうございます」
六は少しはにかんだように言うと、和尚の痩せた手を取った。
その身の軽さと小ささに六は思わずこみ上げたものを堪え、和尚を囲炉裏端へと誘った。

寅屋の皆は既に、進之丞が日を空けず西龍寺に通っているのを見ているためその容態には察しが付いていた。
しかし亥次は、いつも通り、いつもの寅屋でお迎えしようと皆に言い含めた。
だから少し遅めの今日の昼食も、寅屋の囲炉裏端はいつものように賑やかだった。
ただ食事だけは喉の通りのよいものにしたいという進之丞の希望で、嘉吉に頼んで来てもらった。
それを先日まで和尚の食事の支度をしていた六が手伝い、和尚のための心尽くしの昼餉を供した。

 「いやあ、法事でもないのにこない馳走を頂いて。ホンマにおおきに、ご馳走様でございました」
和尚は出されたものの半分も食べることが出来なかったが、それでも寅屋の思いは伝わったようで、箸を置くと深々と頭を下げた。
 「拙僧は飲まれへんが、皆さんはどうぞ構わずやってくださいまし」
 「え、でも……」
 「和尚様がそない言わはんにゃから、かめへん。ここはお前が一番喜ぶところやろ、巳之」
遠慮した巳之吉に亥次が言ったのを聞いて、和尚はおやと言う顔で巳之吉を見た。
 「そちらが巳之吉さんですか。この度は六が世話になりましたな」
 「えっ、ああ、いやそんな。世話なんてひとっつも、どころか俺が方々に世話ァかけてもうて」
 「はっは。よう分かっとるやないか」
進之丞は巳之吉の謙遜に手を叩いて笑うと、眉を下げた巳之吉を指して言った。
 「和尚様、こいつはね、俺の一の弟分で、やんちゃで酒飲みでド阿呆やがええ男なんじゃ」
 「ほうほう」
 「ほいであいつが寅屋の番頭で亀吉ゆうて、あいつァ……」
そこからしばらく、進之丞による寅屋の面々の紹介が続いた。

茶化すような、腐すような進之丞の言い様に、言われた方が言い返したり文句をつけたり、他の者がくちばしを入れたり囃し立てたり。
そうした賑やかな寅屋の面子紹介は最早恒例ともいえるもので、織部はもう何度かこれを見ていた。
しかし今日の進之丞はどこか、まるで今日の出来事を親に話す子供のように見えた。

進之丞がそんな風に皆のことを言うのには場を和ませる意図もあるだろうが、聞いている方には彼らが互いに気の置けぬ仲間であるということが伝わってくる。
だから和尚もきっと、進之丞がこの寅屋で得た仲間との絆を強く感じていることだろう。
そして進之丞もまた、自分にはこんなに良き仲間が居るのだと和尚に伝えたかったに違いない──と、そんなことを思ったら、不意に涙がこみ上げた。
いかん、と思って顔を上げると、ちょうど進之丞が六を指したところだった。

 「ほいで、和尚様もご存知の六です。暗くて無愛想でただデカい奴かと思いきや、商家で身につけた気働きと寺で仕込まれたおさんどんが良う出来て、こらァ使えるのが入って来たぞと毎日店と母屋を走り回らされておりますわ」
 「ははは、そうか。役に立っておるようでなによりや」
 「島暮らしの方がよほど楽やったんじゃなぁんか、六」
 「えっ、いや、そないなことは全く。毎日、楽しゅうやらせてもうてます」
 「阿呆お前、そこは『ホンマです、亀さんも女将さんも人使いが荒うて』て言うとこじゃ」
真面目に答えた六に進之丞が呆れた顔をして言い、囲炉裏端が笑いに湧いた。

 「そういや、六ってなんか由来のありそうな名前よな」
そこで丑松が思いついたように言った。
皆にわいわい言われて笑っていた六だったが、途端に笑顔を引っ込めて首を振った。
 「……いえ、単に、六月に生まれた六番目の子供やいうだけで」
 「あ。ああ、そうなんや。でも、言うたらそれも立派な由来やん、なあ!」
本人にとってはあまり嬉しい話でないことをその表情に覚った丑松は取りなすように言ったものの、既に場はうっすらと気まずい雰囲気に包まれていた。
 「お前、その名ァ気に入らんの?」
進之丞が助け船を出すように訊くと、六はこくりと頷いた。
 「貧乏子だくさんと言いますけど、ウチはホンマその通りで。俺だけ少し年離れとったのもあって、面倒臭かったから六にした、って親に言われました」
 「ふうん……まあ分からんでもないが、本人に言うのはな」
進之丞は苦笑したあとで、そうだ、と手を叩いた。
 「ほうじゃ。ほしたら六、折角じゃけぇ名ァ新しゅうしたらどうね」
 「えっ」
 「今ァちょうどええ機会じゃなあんか。かと言うて全く真新しいのも馴染まなそうじゃけぇ、……ほうじゃなあ、小六とか」
 「こないデカいのに、名ァ小さくしてどないしますねん」
すかさず茶々を入れてきた亀吉に、進之丞は唇を尖らせた。
 「お前、かの武将蜂須賀小六を知らんのか。大体お前かて足自慢のくせに亀吉じゃなぁんか」
 「蜂須賀……て、あー、太閤さんの腹心てやつでしたっけ?」
首を傾げた亀吉の横で、織部が笑いながら言った。
 「由来が蜂須賀小六ゆうなァ、ちと武張りすぎと違うか」
 「ほうか?強そうでええと思うたんじゃけど」
そこで、和尚がぽんと手を叩いて言った。
 「ほなら小さいやのうて、虎にしたらどや」
 「虎?」
 「虎に六と書いて『コロク』や」
 「なるほど、寅屋にちなんで虎の字ですか。ええですね」
織部のその一言で皆もやっと意味が分かったのか、それァいい、と口々に言った。
 「もうひとつ、お前の生まれた六月は水無月と言うが、実際には梅雨時や。なのになんで水の無い月と言うと思う?」
 「えっ」
和尚のその問いに、そう言えば、と六だけでなく皆も首を捻った。
 「それは水の無い月ゆうことやのうて、雨の多い『水の月』がなまって『みなづき』になったと言われとる。つまり──」
そこまで聞いて、亥次がはたと膝を打った。
 「なるほど。大きゅう捉えたら『雨寅』ゆう意味になりますな」
 「──なァるほど!」
和尚と亥次の解説に、寅屋の皆も感心したように手を叩いた。
 「まあ、こじつけやけどな」
皆にすごいすごいと囃し立てられて、和尚は照れ臭そうに笑って肩を竦めた。

 「虎に六で、虎六……」
 「ええやんか、六……やなかった、虎六。雨寅、紅寅に続いて三匹目のトラや」
辰五郎が、少し呆然として呟いた六の背をばんと叩いて笑った。
 「手前んとこの坊主も虎の字書いてコヤタ言うんですけど、紅寅さんと同じトラや言うてエラい気に入ってまっせ」
嘉吉がそう言ったのへ、進之丞ははにかんだように笑った。
 「俺と同じがええかはともかく、六月生まれゆうことに由来してて、寅屋と雨寅にもちなんでて、しかも和尚様の命名じゃ。俺ァもうこれしかないような気がしてきたぞ」
 「……はい。ありがとうございます」
 「よっしゃ、決まりやな。ほな虎六、これからも頑張ってくれや」
誠は話を締めるように言って銚子を取ると、六あらため虎六に酒を注いでやった。
思わぬ形で新しい、しかも寅屋にちなんだ名前を貰うことになった虎六は、その酒を涙ながらに一息で飲み干した。


夏も近くそれなりに日も長くはなったが、それでも時は容赦なく過ぎ、いつの間にか空は夕焼けの紅と夜の蒼に染まっていた。
夕暮れの気配を感じた和尚はふと外を眺め、通り行く人の影が長くなってきたことに少し寂しげな笑みを浮かべた。
 「……なんやどうにも、後ろ髪を引かれる思いがしますな」
思わず口に出して言ってから、それが場をしんみりさせてしまったことに和尚は気づいた。
 「まあ、引かれる後ろ髪どころか一本の髪も無いけどの」
和尚はすぐに冗談で誤魔化したが、皆どういう顔をして良いのか明らかに戸惑っていた。
 「ああ、すんまへんなあ。せっかくの楽しい宴やったのに、最後に辛気臭うしてもうた」
 「いや、自然なことやと思いますで。いっぺんこの世を生きた者はみな、どないしたってこの世に後ろ髪引かれるものでっしゃろ」
亥次は言いながら腰を上げると、和尚の前に座り直してそっとその手を取った。

 「ホンマを言うたら、儂らかて寂しゅうてどうしょうもありまへん。せやけど今は一粒でも涙ァ零したら、どうしょうも出来へんことを言い出してきっと止まらんなる。ほいで、どうしょうもないゆうことを思い知るだけや。せやから、笑うてお見送りさせてもらいます」
 「……おおきに、亥次殿」
和尚は亥次の手を握り返すと、穏やかに笑った。
 「ええ説教やった。お前さん、坊主に向いとるんちゃうか。もう髪もあれへんし、その気があれば儂の最後の仕事として得度したるで」
 「嫌やなあ、儂ァ和尚様と違うて引かれる後ろ髪くらいはまだ残ってますで」
亥次は子供のように口を尖らせながら、薄くなった頭をぺろりと撫でて見せた。
爺二人のそんなやり取りに、寅屋の囲炉裏端に再び笑いが戻った。
亥次だからこそ、いや亥次にしか出来ないその会話を聞きながら、進之丞は強く奥歯を噛みしめた。

亥次の言った通り、涙を零せば言ってもどうしようも無い思いも一緒に零れてしまいそうだった。
行き場のないその思いはとめどなく、そしてきっと和尚を困らせるだけだと分かっていた。
それでももう恐らくこれが最後だと思うと、言いたいだけ言ってしまいたい衝動が涙と共にこみ上げてくる。
そうして進之丞が必死で涙を堪える横で、虎六が大きな背を丸めて嗚咽を漏らした。

 「六、いや虎六よ」
和尚は、顔を伏せてしまった虎六に苦笑しつつ、穏やかにその名を呼んだ。
 「せっかく亥次殿が笑うて見送ると言うてくだすったのに、台無しやないかいな」
 「〜〜〜すみません……」
 「お前の人生は、いわばこれからやぞ。これが己で選んで来た道やゆうことを忘れずに、その道にしっかと足を着けて、前を向いて歩いて行くのやで」
 「……はい」
 「お前、前を向けと言われておるのに俯いたまま返事をする奴があるか」
進之丞は、顔を伏せたまま返事をした虎六の背をばんと叩いて言った。
 「和尚様、寅屋の飯を喰うとなったからには、虎六はもう家族の一員です。末っ子の面倒は家族全員でみるものと決まっとりますさかい、どうぞご安心を」
 「うん。心配は、しとらんよ」
和尚は進之丞の言葉に目を細めて頷くと、ぽんと膝を叩いた。
 「さあ、辛気臭い説教はこれで仕舞いや」
和尚は努めてカラリと言って、よいしょと腰を上げた。


空の蒼は既に漆黒の闇へと移り、しかし月もあり星も瞬いて、明るい夜だった。
再び駕籠に乗り込む和尚の小さく丸い背を見ながら織部は、今日が新月の暗い晩でなくて良かったと思った。
月と星明かりの下を、進之丞と織部、そして虎六の三人は駕籠に付いて和尚を西龍寺まで送った。

歩く方が大変ではあるが、駕籠もそれなりに揺れる。
その揺れが堪えたのか、山門の前で駕籠を降りた和尚は夜目にも分かるほど青い顔をしていた。
 「虎六、見習いどもを呼んでこい」
 「あ、はいっ」
その顔色を見た進之丞はすぐに虎六を母屋へ走らせると、駕籠の傍らに膝を付き背中を差し出した。
 「乗ってつかあさい、和尚様」
 「……いや、」
しかし和尚は、面映ゆいと思ったのかその申し出を拒んだ。
進之丞はその心情をなんとなく察しながら、和尚に背を向けたままぽつりと言った。

 「昔、父が俺を負ぶうてくれたことがあったんです。──覚えとるか織部、あの大晦日の晩よ」
 「ああ、覚えてるよ。俺とお前と、長徳様と三人で城を抜け出して除夜の鐘を撞きに行ったんよな」
 「そうそう。ほいで境内に店を出しておった親爺さんの金を盗んだ泥棒を捕まえてな。そこに、禎織様が馬で駆けつけて来て」
 「ほうじゃった。父は叱るつもりで来たのじゃろうが、長徳様が国と民のために鐘を撞きに来たと言うたら、若殿様がそがん仰るならと寺に口を利いてくれて」
織部は進之丞の話に乗っかりながら、和尚にも分かるようにその時のことを話した。
 「でも子ども三人じゃ重たい撞木しゅもくを引かれんで、長徳様が境内に居った人らに呼びかけて皆で鐘を撞いたんです」
 「ほう。そないな話、初めて聞くのう」
少し落ち着いてきたのか、そこで和尚はやっと相槌を打った。
進之丞は背中でその声を聞いて安堵しつつ、当時の禎織の姿を思い出しながら目を細めた。
 「……その日俺、父に譲って貰うた刀の下げ緒をつけてたんです。泥棒を捕まえた時に、父が買うてくれたこの刀を初めて抜いたんですって禎織様に言うたら、禎織様は確かに、この紅い下げ緒を見て懐かしそうなお顔をしておられた。今思えばあの時禎織様は、父のことを思うておられたのではなかったかと」
 「…………」
 「城に戻ったら御殿様と禎織様が来られて、暮れの挨拶を交わしました。でもその場に俺の父は居らんで、一人寒い玄関先で俺を待っとられた。父は曲がりなりにも御目見得の末席に居るのに、なんで一人だけこんなところにと思いました。……でもきっとあれは父が望んでそうしたんじゃろうと、今は思います」
 「……そうか」
和尚がそれだけ言って頷いたのを見ながら、織部もまたその時の事に思いを馳せていた。

あの時父は、何故かもう少し此処に居ろとだけ言って腰を上げようとしなかった。
あれは多分、今進之丞が言ったように鼎と互いに顔を合わせないためであったのだろう。
二人の想いがどれほどのものであったのかは最早知る術も無いが、近くに居ながら側には居られない苦しみがあったのだろうことが今は推察できる。
そう思うと、再会した進之丞を『鼎』と呼んで涙を流した父の姿と、国を捨てても離れたいと──離れなければならないと考えたのであろう鼎の想いが、時を経て今自分の胸を締め付けた。

 「その帰り道、本物の除夜の鐘を聞きながら俺、ねむたなってしもうて。ほしたら父が、珍しく俺を負ぶうてくれたんです。ほいで、『いつかお前が、俺をおぶう日が来るんかのう』って、そがん言うたんです。──でも俺は、生きてる父を負ぶうてやることは出来ませんでした」
 「…………分かった。ほな鼎殿の代わりに、世話になろうかの」
和尚はそこまで聞いてやっと進之丞の背に手を伸ばした。
広く、逞しく、温かい背中だった。
その背に身を預けた和尚は、確かめるようにその名を呼んだ。
 「進之丞」
 「はい」
 「儂ァ、お前に会えて良かった」
 「!──和尚様、」
 「正直を言うと儂には、鼎殿と交わした約束のみなまでは叶えられんと思うておった。お前は強い男に育って、寅屋という居場所を得て、この地で生きて行ける道を見つけた。儂に出来るのはそこまでやと──ここまでで充分やないかと、そない思うてた」
 「…………」
 「せやが、鼎殿とお前が最も願うておったことを、織部殿が叶えてくれた」
 「……はい」
 「その願いは仏さんや天やのうて、織部殿の想いの強さが叶えてくれたことや。さっき坊主にあるまじきことを言うたがな、あれはお前たちが儂に教えてくれたことなんやで。せやからこのまま『今』を大事にしたいと願うなら、『お前』がその思いを行動に変えなならん。……ほいで、必ず叶えるのやで」
 「〜〜〜はい……」
進之丞は零れる涙もそのままに、和尚の言葉を背中で聞いた。
静かな嗚咽に震える背を感じながら、和尚は傍らで神妙な顔をしている織部を見遣った。

 「織部殿」
 「は、」
 「最後に一つだけ、儂の願いを聞いてくれへんか」
 「はっ……、自分に出来ることであればなんなりと」
織部がそこで足を止めたので、進之丞もまた足を止めた。
その背中から、和尚はまっすぐ織部を見つめて言った。
 「織部殿。お前さんの選んだ道は、決して平坦ではないやろう。この先も、身を切られるような選択をせねばならん時があるかもしれん」
 「……はい」
 「お前さんたちの父上は、互いに独りでその選択をせざるを得んかった。少なくとも鼎殿は、その選択を後悔しておられたように、儂には見えた」
 「…………」
 「せやが、お前さんの側には進之丞が居る。もしそないな選択を迫られたときは、独りで決めずに進之丞や周りを頼って欲しい。それが、お前さんへのお願いや」
 「和尚様……」
 「お前さんだけが傷つかねばならん必要など、どこにもあれへんのやからな」
 「……はい」
 「うん。二人とも、ええ子やな」
和尚は頷くと、そんなことを言って満足そうに笑った。
そこへ虎六とともに佐吉たちが出迎えに来たのが見えたので、進之丞は再び母屋に向かって歩き出した。
玄関で和尚を下ろした進之丞は、佐吉たちに抱えられるようにして母屋に入っていくその背を潤んだ視界の向こうに見送った。