道仙和尚が亡くなったのは、それから三日後の明け方のことだった。

その日は昨晩からの強い雨が降り続き、進之丞は家に帰らず寅屋に泊まり込んでいた。
一報がもたらされたのは、進之丞率いる弐番組がちょうど見廻りに出ようかという時だった。
巳之吉は誰か他の者に替わってもらったらと言ったが、進之丞はそれに首を振った。
 「俺は見廻り終えてから行くけん、虎六お前、駕籠を呼んで親爺さんを西龍寺に連れてったってくれ」
 「えっ、でも」
 「この雨じゃ、橋の様子が気になる。仕事を差し置いて行ったところでもう和尚様と言葉を交わすことは出来んしな」
 「……それは、そうですが」
 「ほしたら、あとでな」
進之丞はどこか納得出来ない様子の虎六に構わず笠と蓑を着込むと、強い雨の降る町へ出た。

 「大分水かさ増えとるな。この調子で今日一日降り続いたら小さい橋は危ないかもしれん」
呟くように言って振り向いた進之丞に、巳之吉は訊いた。
 「なあ、紅寅さん」
 「うん?」
 「和尚様に会いに行かんで、ホンマに良かったんか」
 「行かんとは言うとらん。なんもない日ならともかく、こがん雨じゃけぇな」
 「せやけど、それこそ橋が流されたゆうならともかく、見廻るだけなら別に紅寅さんが居らんでも大丈夫やで。それとも、俺らのことがそない信用ならへんか」
 「へっ」
その言葉に進之丞はちょっと驚いた顔をしたあとで、困ったように眉を下げた。
 「……そういうつもりじゃァなかったが、そがん風に聞こえたんなら謝る」
 「あっいや、詫びて貰うようなことやないけどさ。でも和尚様は、紅寅さんにとって大事なお人やったんやろ?せやから……」
 「じゃけぇ、今は手前の仕事をしておりたいのよ」
 「え……?」
 「覚悟はしておったが、亡うなりましたと言われて、はいそうですか言うてすぐさま和尚様の死に顔を見に行けるほど──そがんすぐには、受け入れられん」
 「…………」
 「それに俺は、このふた月ほどほとんど毎日和尚様と話をさせてもろうた。そらもっと話したかったゆう思いもなくはないけど、話すべきことは互いにみな話したと思う。じゃけぇ今駆けつけても、あの和尚様はきっと『なんやお前、仕事をほっぽり出して来よったんか』って言うよ」

それは嘘ではなかったが、全てではなかった。
自分で言ったその台詞が和尚の声で再生されて、進之丞はこみあげたものを堪えるように震えた唇を噛んだ。

 「そっか。……どうも俺、見当違いなこと言うてすんません」
進之丞の胸の内を聞いた巳之吉は、素直に詫びて小さく頭を下げた。
その勢いで笠の上に溜まっていた水がざあっと落ちて、進之丞の足下で跳ねた。
 「ああっ、すんません!」
 「……おおきにな、巳之」
 「へ?」
文句を言われるかと思いきや礼を言われた巳之吉は、思わず顔を上げて目を丸くした。
穏やかではあるがどこか寂しげな、そんな笑みを浮かべた進之丞を、巳之吉は初めて見た。
 「俺にはそがんして気遣うてくれる仲間と、すべきことがある。じゃけぇ俺は大丈夫よ」
 「紅寅さん……」
 「じゃが虎六はついこないだまで和尚様の下に居ったけぇ寂しさも一入ひとしおじゃろう。寅屋ではまだ新参じゃし、俺よりあいつを気遣うてやってくれ」
 「……そうやな。分かった」
 「お言葉に甘えて、報告はお前に任せる。じゃけぇ見廻り終わったら俺、一旦家に帰ってそのまま西龍寺へ行くわ」
 「ああ、うん」
 「虎六のこと、頼んだぞ」
 「…………うん」
念を押されて、巳之吉は今度は笠を傾けないように注意しながら小さく頷いた。


この雨で今朝は稽古に来た者も少なかったのか、いつもならこの時分に聞こえているはずの竹刀の音ももう止んでいた。
進之丞が玄関でずぶ濡れの笠と蓑を脱いでいると、その音を聞きつけた右近が稽古着のまま飛んできた。
 「進之丞さんじゃありませんか。どがあしたんです」
 「織部は?」
進之丞は、右近の問いに答えずそう訊いた。
 「えっ……いま、上で着替えていらっしゃいますけど」
 「そうか。したら、そこでちょっと待つよう言うてくれ。足濯いだらすぐ行くけん」
 「……分かりました。ほしたら、手ぬぐいを」
 「うん」
何事か察した右近はそれ以上言わず、手ぬぐいを取りに行った。
風呂場で足を濯いだ進之丞は右近が持って来てくれた手ぬぐいで髪と足を拭うと、下帯一丁のまま二階に上がった。
右近からの伝言どおり二階の寝間で待っていた織部は、裸の進之丞を見て驚いた。

 「し、進之丞……?」
 「和尚様が、亡うなった」
 「えっ」
 「逝って、しまわれた…………」
 「……ほうか」
 「見廻り出る前に報せを聞いたんじゃけど、すぐには行けんで……じゃけぇいつも通り仕事して、ほいで、お前に──お前のとこに、帰ってきた」
そこで俯いてしまった進之丞を、織部は力強く抱き寄せた。
温かい胸の中で、進之丞は初めて織部の前で声を上げて泣いた。
織部はその声を閉じこめるように強く抱きしめながら、今こうして進之丞とその悲しみを抱き留められていることを和尚に感謝した。

どんなに悲しいときでも、彼には彼を支える『すべきこと』があることも。
彼にとっての自分が、帰れる場所であり思うさま泣ける場所たりえていることも。
それらは和尚が言った通り進之丞が自身で得てきたものではあるが、和尚が彼を闇の中から救い出してくれなかったらきっと手に入ることはなかっただろう。
和尚は、いま進之丞がそれらを持っていられていることを何より喜び、この先もそうあるようにと望んでくれた。
進之丞もそれを分かっているから、その死を知っても敢えて自分のすべきことを優先し、そして自分の元へ帰ってきたのだ。


素肌を通して伝わってくるその温もりに、ふと先日見た夕暮れの空が脳裏を過ぎる。
あの時、今が幸せだと思えば思うほど変わらぬものなどないという事実が恐ろしくなって、思わず横に居る進之丞の手を取った。
けれど今、大きな一つの愛を失っても、自分たちはこうして共に悲しみながら側に居る。
──居られている。

和尚は自分に、進之丞や今のこの日々を守れとは一度も言わなかった。
むしろ自分の行く末の険しさを察し、一人で抱え込むなと言った。
そうすることこそが進之丞と二人で生きていく道なのだと、そしてその道を行って欲しいと──それが、最後の言葉になった。

短い間ではあったけれど、道仙和尚は自分の業を知り、深い慈愛をもって理解をしてくれた。
そして、この身の幸せを願ってくれた。

(ああ、和尚様……)

織部はあらためて喪った人とその情の深さを思いながら、進之丞の素肌に顔を埋めて自分も涙を零した。
そうして泣くだけ泣いてから、進之丞を抱きしめたまま言った。

 「進之丞。一緒に、和尚様に会いに行こう」
 「……うん」
織部は頷いた進之丞の背を宥めるように優しく叩くと、布団から出て襖を開けた。
 「右近、着替える。手伝うてくれ」
 「はい」
すぐに階下から声が返ってきて、右近が上がってきた。
織部は平服の上に黒の羽織を着て、進之丞は襦袢を白い衿のものに替えた。
そして進之丞はふと思い立って隣の仏間に入ると、父鼎の形見の羽織──一回り以上は小さいそれを羽織った。
そこへ、織部の支度を終えた右近が仏間に来て言った。
 「進之丞さん、身体冷えとるでしょう。茶ァ煎れましたけん」
 「あっ。おおきに、いただくよ」
進之丞は今更ながら右近という男の気働きに感心しながら礼を述べ、熱い茶を啜った。
その傍らで、右近はいつもと違う装いの進之丞を眺めながらぽつりと言った。
 「……俺の両親が亡うなった時はお寺さんを呼ぶ余裕なんかのうて、埋葬するんが精一杯でした」
 「うん?」
 「じゃけぇ、和尚様には俺の両親にもお経をあげていただいて、ホンマに有り難かったです」
 「ほうか……」
 「それも、進之丞さんや織部様にこの地で逢えたからこそです。当時は先のことなんか何も考えられんかったし、去年芸州に帰ったときは家も田畑も無うなってて寂しい思いもしたけど、やっぱり織部様を追うて来て良かったと──俺はそれで良かったんじゃと、あの日の和尚様のお言葉を聞いて思いました」
 「……うん」
進之丞は今ここでその心情を口にした右近の気持ちを思いつつ頷き、湯呑みを置いた。
 「ごちそうさま。──なあ、右近」

 「えっ、はい」
 「もしもいま俺に何も無かったら、俺はきっと一報を聞いてすぐさま寺に駆けつけるしか、なかったと思う」
 「え……?」
その妙な言い回しの意味が一瞬飲み込めず、右近は軽く眉を顰めた。
進之丞は、そんな右近を穏やかに見つめ返して続けた。
 「じゃが今の俺には仕事があって、仲間が居って、こがんして帰ってこられる家があって、大事な人を亡くした悲しみを分かち合える家族が居る。今そのことを、あらためて有り難いと思うよ」
 「進之丞さん……」
初めて進之丞から『家族』と言われた右近は、その言葉に思わず涙を浮かべた。
 「和尚様は何より、俺が幸せで居ることを望んでくださっていた。じゃけぇ、やっぱり帰ってきて良かった。有り難うな」
 「そんな……有り難いなァ、俺の方です」
そう言って俯いてしまった右近の頭を撫でてやりながら、進之丞は自分もまた密かに涙を浮かべて小さく笑った。
 「道仙和尚様は、坊さんのくせに仏のお陰じゃというようなことは仰らんお人じゃった。色々説教されたけど、とどのつまりはいつも『自分がしたことはええ事も悪いこともみな手前に返ってくる』ゆうことを仰ってたように思う。手前の人生を決めるのは他ならぬ自分自身で、己を磨き懸命に生きて居れば人も金も後からついてくる……とな。寅屋に入った頃に良う言われたよ」
 「…………」
それを聞いて、右近はこれまで進之丞に掛けられた言葉の数々やその言動が、全て繋がったような気がした。
寅屋で『紅寅』と過ごし、今『相馬進之丞』と暮らしてその両方を知っている右近には、それは和尚の言葉でありながら確かに進之丞の生き方そのもののように思えた。
そう思うと同時に、己の人生にそれほどの影響を与えた人を喪った進之丞の、今の心中を考えるとまた涙が溢れてきて止まらなくなった。

 「最後に貰うたお言葉も『今を大事にしたいと願うならその思いを行動に変え、必ず叶えろ』じゃった」
 「そう……でしたか……」
 「うん。じゃけぇお前も『今』を有り難いと思うなら、それを守っていけるよう頑張れ。俺も、頑張るけん」
 「はい。……お言葉、有り難う存じます」
 「俺じゃのうて、和尚様のお言葉よ」
右近の礼に進之丞は彼らしく少しはにかんだように言って、伏せた右近の肩をぽんと叩いた。
そこで、見計らったかのように襖が開き織部が顔を覗かせた。
 「待たせたの。行こうか」
 「ああいや、待たせたなァ俺の方じゃろ」
話が終わるのを廊下で待っていたのであろう織部に、進之丞は苦笑して立ち上がった。
織部はそんな進之丞を抱きかかえるようにして迎え、目を赤くしている右近へ言った。
 「右近、ありがとう」
 「えっ」
 「行ってくる」
 「……はい。いってらっしゃいませ」
右近は織部からの礼の意味を噛みしめながら手を仕えると、深く頭を下げて二人を見送った。


翌日の葬儀の日も、勢いこそ弱くなったものの雨は降り続いた。
その雨の中、檀家である天満の波印、そして雨寅も火消装束で揃い、木遣り歌で棺を見送った。
雨寅の中に虎六を見つけた仙太は、涙を浮かべながら駆け寄ってきてその姿を見上げた。
 「ご立派ですよ、六……いや、虎六さん。和尚様も、さぞ安心しておられましょう」
そう言った仙太もまた、きちんと袈裟を着けた僧侶の姿であった。
 「お前もな、仙太」
進之丞は仙太の肩を叩くと、灰色の空を見上げた。
雨が涙といっしょくたになって、顔を流れて行く。

 「──俺のことも、そう思ってくれてるといいな」

そう、ぽつりと呟いた進之丞の傍らで、織部は自分も空を見上げた。
俯けば、喉まで出かかっている嗚咽が零れてしまいそうだった。


『精一杯生きてきたつもりでも、後悔が一つも無い人など居らんのかもしれへんね』

そう言った和尚の言葉が、少ししわがれた、温かみのある声と共に頭を過ぎる。
本当にその通りだと思った。

和尚から受けた数々の言葉と思いが、雨と共に心を満たす。
和尚は幾度も逢えて良かったと言ってくれたが、救われたのはきっと自分の方だ。
けれどその感謝と思いを尽くす前に、和尚は居なくなってしまった。
やはりもう少し早く出逢いたかったと──和尚のささやかな後悔は、そのまま自分の後悔として遺った。

それでも和尚は、もう思い残すことは無いと言って旅立った。
虎六を進之丞に託し、鼎の想いを伝え、そして自分と進之丞の『今』を見届けて。
だからこの後悔はきっと、遺された者には少なからずある、喪った人への慕情なのだろう。


三郷に、涙雨が降る。
田畑を、木々を潤し、寂しさに染み入るように、静かに雨が降る。
そして慈愛に満ちた雨に洗い流されたあとは、三郷にまた祭りの季節がやって来る。

織部は雨に濡れた進之丞の手をそっと握りしめながら、和尚が自分に託してくれた思いを守り抜くと心に誓った。