和尚が亡くなった日から、進之丞は白い衿のまま過ごして喪に服した。
四十九日を越えてその衿が紅色に戻った頃には、三郷にはもう夏の気配が満ちていた。

今日は、長梅雨のためにずっと延期になっていた第一回の消防指導が天満の惣会所で行われた。
指導役は中村屋仁之助率いる天満の波印で、初回ということもあり他四印の主だった火消たちや奉行所の火事役も見学参加した。
奉行所も立て札を使って報せるなどして周知に努めた甲斐あって、参加必須と言われた北大丸をはじめ天満の商人、町人たちが大勢集い、盛況のうちに第一回を終えた。

 「はァ、疲れた」
思いのほか人が集まったために、人捌きに駆り出された進之丞はやれやれとため息をついた。
同じく手伝わされた巳之吉も、苦笑しつつ頷いた。
 「ようけ集まりましたな。御奉行様も満足されるんとちゃいますか」
 「まァ初回じゃしの。天満は今日やれたけぇ良かったが、問題は次の南組じゃな」
 「そやね」
進之丞の言葉に同意した巳之吉の横で、虎六は小さく首を傾げた。
 「なんでです?」
 「この町の連中はこの季節になると祭りのことで頭いっぱいになるけぇな。一番大きい天神さんまではまだ日があるが、南の方はもうぼちぼち始まっとるじゃろ。じゃけぇあまり日を空けずに第二回を南でやっておこうゆうことになったはええが、今日ほどには人が集まらんかもしれん、ちゅうことよ」
 「ああ、なるほど」
 「三郷は狭い町やけど、天満、北、南とそれぞれ色々違いがあるねん。天満は市場と天神さん、北は商家、南は芝居小屋やら茶屋やらが多いさけ、人の気質とか、行事とかな」
 「五印も一応三組に分かれておるけど、手前らの管轄地域だけ守ってりゃええゆう訳じゃない。特にウチは天満にも南にも出張るけぇ、三郷の町割りだけじゃのうて、どこでいつごろ何があるかも把握しておけよ」
 「そうそう。火事は冬の方が多いと思うやろうが、祭りン時はあちこち夜通し提灯ぶら下げるさかい結構小火が出るのや」
 「わ、わかりました」
巳之吉の快気祝いの翌日から寅屋に移った虎六は、船場の人たちにも大分顔を覚えられたし既に出動も何度かこなしていた。
自分でもそれなり慣れてきたと思っていたがまだまだ学ぶことは多いなと、先輩二人の言葉に気を引き締めつつ何度も頷いた。


そんな話をするうちに、三人は西龍寺の山門の前まで来た。
進之丞も虎六も、西龍寺を訪れるのは道仙和尚の葬儀の日以来だった。

あの日はまさに涙雨とも思うような冷たい雨が降り、全てが灰色の風景の中で寂しく濡れていた。
しかし今、聳える山門の上には青い空が広がり、夏を思わせるもくもくとした雲が湧いている。
少し汗ばむほどの陽気に虎六はうっすら額に浮かんだ汗を拭うと、二人を墓所へといざなった。

墓地を突っ切りまっすぐ塀際まで進むと、敷地の隅に真新しい墓が建っていた。
小さいがちゃんとした墓碑には、名が刻まれていた。
 「……これ、ホンマの名ァか?」
進之丞が訊いたのへ、虎六は小さく頷いた。
 「はい。一度だけ……教えてくれたんです」
 「そうか」
進之丞は頷いて膝を折ると、五年前に死んだ女の本名をじっと見つめた。

この時代、庶民の墓の大抵は土を丸く盛った上に卒塔婆を立てるだけであった。
遺体も無く、しかも身寄りの無い者の墓に墓石を建てるなど滅多に無いことではあったが、これは彼女を弔っていきたいと言った虎六のために亡き和尚が建ててくれたものだった。
進之丞は和尚の虎六への思いをあらためて噛みしめながら、労るようにその小さな石碑を撫でた。

(よかったな。六はお前の名を覚えておったぞ)

女郎が源氏名というものを名乗るようになった由来などは知らない。
けれど春をひさぐ者が、偽りの名を名乗る気持ちは良く知っている。
そして本名を隠して生きることが、どれほど後ろめたく寂しいことなのかも。
だから女郎が本当に惚れた男にだけ本名を告げるという話も、共感を持って理解出来た。

自分は彼女の顔も知らないし、彼女も自分のことを知らない。
けれど虎六が彼女の名を覚えていて、これからも忘れまいとしていることを、他人事ひとごとながら良かったと思った。
一度は信心を棄てた自分が今そんな風に思えるのは、やはり自分を忘れずに居てくれた人が居るからだろう。

──そんな進之丞の胸中など知る由も無い虎六は、墓を洗い清めると静かに手を合わせ目を閉じた。
様々な想いを一つ一つ言葉にする代わりに、彼女と出逢ったときから今日までのことを頭に思い描いた。
すると、あの時もっと彼女と話をしていれば、彼女の想いを受け止めていたなら──と、詮無い考えが多少の後悔と共に浮かんだ。

お前には差し伸べられた手があったはずだ、という織部の言葉を何度目か思い出す。
彼女もまた確かに、自分に手を差し伸べてくれた一人だった。
虎六は彼女の白く細い手を──記憶の中でもうおぼろげなそれを思い出しながら、その手を取ってみた。

彼女の遺体に触れることは出来なかったから、いま心の中で握るその手には温もりがあった。
そういえば彼女の肌はいつも少し冷えていた……と思うと同時に、あの雨の日に触れた巳之吉の温かさを思い出す。
他人を温かいと感じたのは、あの時が初めてだと思っていた。
けれどかつて彼女の冷たい肌も、確かに熱く自分を包み込んだ瞬間があった。
それを忘れていた、思い出しもしなかった自分の薄情さを、今あらためて思う。


(あんた、あの人に死ねと言われたら死ぬの?)

やはりおぼろげに思い出した彼女の声が、いつかと同じことを訊いた。
あの時は、当然のように頷いた。
しかし今は──

(死なへんよ。この先、誰に言われようとも)

そう答えると、見覚えのある狭く淫靡な部屋の光景が目の前に広がった。
その光景の中で、煙管を手に格子窓にもたれ掛かった彼女はふうと煙を吐いて笑った。
(あんた、変わったねえ)
(…………)
(やっと、人並みになったやない)
(家畜から、か)
苦笑すると同時に、彼女への申し訳なさと後悔が押し寄せて、堪らず顔を伏せた。

その変化は自分にとって喜ぶべきものであると思うが、一方で彼女の時はもう止まってしまっている。
それを止めてしまった一因である自分が、今更彼女にどんな顔を向けられるというのか……

(出来れば、今もう一度、出逢いたかったな)
(……!!)
その一言に虎六は、絞り出すような思いで応えた。
(俺は──あの頃に、お前が生きとるうちに、お前の気持ちにちゃんと気づきたかった。そうしたら、きっと……)
(もう、ええよ)
彼女は遮るように言って、少し寂しげに笑った。
(その一言が聞けて、満足した)
(…………)
(せやから、もうええの)

あれから五年も経った今、彼女も最早そう言うしか出来ないのだと理解する一方で、これ以上はどうしようもないことなのだと痛感する。
だから、再びその手を取って言った。
 「俺がお前にしたことは、いくら謝っても謝りきれるもんやない。ほいでも俺はやっぱり、心からお前に感謝をしてる。せやから俺はこの後悔も、お前と出逢うたことも、お前が俺を庇うてくれたことも、一生忘れずに生きていく。ほいでお前に恥じることのないよう、精一杯生きてみせる」


目を開けると、途端に明るい陽射しが目に刺さり虎六は思わず眉を顰めた。
そして徐々にはっきりしてきた視界の中で、進之丞と巳之吉が驚いたように自分を見つめていた。

 「どうやら長い話をしとったようじゃな」
進之丞に言われて、いつからか声に出ていたと気づいた虎六は大いに慌てた。
 「ど、どっから……」
 「謝っても謝りきれるもんじゃないってとこからかな」
進之丞は一瞬笑って虎六の背を叩いてから、その笑みを引っ込め小さな墓碑を見下ろした。
 「じゃがどがあに後悔しても、語りかけても、死んだ者が応えてくれることはない。死んだ者に恥じぬように生きようと思うのも、言うたら手前の後悔をやわらげるものでしかない」
 「ちょっと、今そないなこと言わんでもええやん」
進之丞の厳しい言葉に巳之吉が怒ったように言ったが、その通りだ、と虎六は思った。

今の彼女との会話は、きっと記憶の中の彼女の姿を借りた自分自身との会話に過ぎない。
もしかしたら彼女は今も自分を許してなどいないかも知れない。
けれどそれも、答えなどありはしない。
──彼女に問うことなど、もう出来はしないのだ。

 「じゃが、それでええと思う」
 「えっ」
 「もう物言わぬ人に語りかけるなんてなァ、一方的で勝手なもんじゃ。けど語りかけながら、あの人ならどがあしたじゃろうか、どがあ言うじゃろうかって、色々思い出すよな。それはその人がこの世に確かに生きておったゆうことの証じゃと、俺は思う」
 「証……」
 「遺された者はその人を思い出すことしか他に出来ることが無い。墓を建てるんも仏壇を拵えるんも、つまりは忘れんためじゃろ。供養ちゅうのはそがなことなんじゃろうと思うよ」
進之丞はそう言うと、ふっと空を見上げた。

 「生きてる間にどれほど尽くそうと、きっと後悔は残る。じゃが、それにずっと囚われておったら遺された者は辛うて生きていけん……」

その視線の向こうには、これまで進之丞が失ってきた大切な人が居るのだろう。
そしてそこには、間違いなく道仙和尚も居る。
その人への思いは自分も同じだから、いま進之丞が感じている寂しさは、虎六にも痛いほど分かった。


和尚が亡くなったという一報を受けていながら、すぐに駆けつけなかった進之丞に疑問を抱いた事もあった。
しかしその後、その心中も知らずにその疑問を口にして巳之吉にこっぴどく叱られた。
そして、あの時進之丞がどんな思いで見廻りに出たのかを聞いた。

 「お前はあの人のことを何もわかっとらんのやな。紅寅さんはな、自分よりお前を気遣うてやってくれと俺に言うたんやぞ」
 「えっ……」
 「人にはな、泣きとうても泣けへんことかてあるんや。そない甘ったれた考えしとったら、この先火消としてやっていかれへんで」
 「……!?」
 「お前が思うてる以上に、火消は死に近いとこに居るんや。どない頑張っても助けられん人は居るし、なんでもっと早う駆けつけてくれへんかったんやって責められることかてある。そないな時は泣きたいほど悔しいけど、それでも火消はその時助けられる人を助けに走らんならん。お前が選んだのは、そういう仕事なんや」
 「…………」
 「あの時、紅寅さんは多分、泣いてはった。……せやからこれ以上紅寅さんを責めるようなことを言うなら俺が許さへんぞ」

初めて巳之吉に叱られて、進之丞の思いを知って、それこそ泣きたいほど後悔した。
けれどそうして気遣ってくれる人や叱ってくれる人が居る有り難さを──そうした仲間の下へ送り出してくれた和尚への感謝と共に噛みしめたのだった。


(……すんませんでした、紅寅さん)
虎六は今、目の前で空を見上げる人の寂しげな背中に、心の内で詫びを述べた。
すると、その人が振り向いて小さく笑った。

 「けど俺、実は死んだ人と一度だけ話したことがあるんよね」
 「へっ!?」
思わぬ言葉に、虎六と巳之吉は同時に声を上げた。
 「仁太に刺された後にな、誰かがずっと俺を呼んでおるんよ。それが父親の声じゃと気づいて、これァまずいと思うた」
 「で、ど、どないしたん?」
 「戻ったらぶち痛いけど、どがあする?って言われてさ。ほいでも行きますって答えたら、誠やお前たちの声が聞こえてきた」
 「……そうなんや。紅寅さんあん時、ホンマにやばかったもんなあ。親父さんがこっちに追い返してくれたんやな」
当時のことを思い出した巳之吉は少し感慨深げに言った後で、ふと寂しげに目を伏せた。
 「俺、誰も迎えになんか来てくれへんかった」
 「そらお前が三途の川まで行っとらんかったちゅうことよ」
親の顔も覚えておらず、その生死を知る由も無い巳之吉へ、進之丞はそう言って笑って見せた。
 「幼い頃はおっかない父親じゃったが、そういや会いに来てくれた時は優しかった頃の姿じゃったなあ……」
進之丞はどこか子供のような顔で呟いてから、目の前の墓に視線を落とした。

 「じゃけぇ虎六、お前も、思い出す時はいっちゃんええ顔を思い出したり」
 「えっ」
 「覚えておれば、死に際にもういっぺん会えるかも知らん。ほいでもし会えるなら、綺麗なときの顔がええに決まってる。なあ?」
そんなことを言われても墓は当然ながら何も応える訳もなかったが、虎六はその言葉に笑顔で頷いた。
 「……覚えてるよ」
虎六は呟くように言って、記憶の中で取った彼女の手をもう一度握りしめた。
その時再び、織部の言葉が脳裏に浮かんだ。

『彼らがどがな顔で死んでいったか、その最期を全て覚えている』

(ああ、そうか……もしかしたら、あのお人は)

 「……世良様も」
 「えっ」
不意にその名が虎六の口から出て来たので、進之丞は驚いたように顔を上げた。
虎六は墓を見つめたまま、痛ましげな顔で言った。

 「これまで自分が斃してきた相手の顔を、みな覚えてると……」


織部に斬られたと思ったあの瞬間、見えたのは彼女の顔だった。
あの一瞬、彼女は確かに自分に会いに来たのかも知れない。
それが家族でも清太郎でもなく彼女であったのは、自分の胸の奥深くに仕舞い込んだ後悔が呼んだのものか。
だとしたら──

 「もしそいつらが恨み言を言いに現れても、そん時ゃ俺もそこに居るけん」
 「えっ!?」
頭の中で考えていたことを見透かして答えたかのような進之丞のその言葉に、今度は虎六が驚いて顔を上げた。
 「あいつは俺より先には死なんと約束したけん、あいつが死ぬ時一番に迎えに行くなァ俺じゃ。じゃけぇ、大丈夫よ」
そう言って笑った進之丞を、虎六は呆然と見つめた。

これまで斬った相手をすべて忘れずに覚えているのは、言い訳はしないと言う織部なりの密やかな供養なのかも知れない。
だから織部も、いまわの際に彼らの恨み言を聞く覚悟で居るのかも知れないと思った。
それでも織部はこれからも、時には誰かの命を奪っても、進之丞のために生きようとするだろう。

そんな織部の想いと覚悟が、今更ながら胸にずしりと響く。
何が大丈夫なのかは分からないけれど、己が死した後もそれを受け止めるつもりで居る進之丞の想いも。
そして誰かのために生きるという選択が誰かのために死ぬより険しい道であるからこそ、強く在らねばならないことも。


これまで、死とは生きることに意味を見いだせなかった自分の、唯一の救いであると思っていた。
けれど誰かのために死にたいなどという望みは、所詮思い上がりだったのだと思う。
自分がたとえ五年前に死罪になっていたとしても、それは清太郎だけでなくきっと誰一人救いはしなかった。

だからこの腕に遺された蒼い印は、進之丞が言ったとおり戒めなのだろう。
生と死の、その重さを知らないでいた自分がいかに愚かであったかを忘れぬための。
自分が今、幾人かの人の想いの上に生かされていることを忘れぬための。
そして彼女を死なせてしまった罪の証であると同時に、これは彼女がこの世に生きていたことの証でもある。
自分の過去に清太郎が居た事実と同じように、この傷も、彼女の生と死も、等しく抱えて生きていこうと、そう思う。

(お前が許してくれても、くれなくても、俺はそないして生きていくよ。せやから俺が死ぬときは、恨み言を言うのでもええから会いに来てくれ)

胸の内でそう言った時、初夏を思わせる風が伸びた虎六の髪をふわりと揺らした。
風は虎六の懐へ入り込むとその左腕を撫でて、三本線の染め抜かれた袖から吹き抜けて行った。

 「……ありがとう、──」

虎六はその名を声に出して小さく呼ぶと、風が去って行った方の空を見上げた。
その視線の端に、雨の字を背負った進之丞と巳之吉の笑顔が見える。
閉ざした世界を開き、自分を此処へ導いてくれた、大好きな二人の笑顔が。



水無月の雨の頃、世界は雨と共に灰色に閉じこめられていた。
しかし降り続く雨に打たれた大地は潤され、新たに芽吹いた緑がいま風にそよいでいる。
自分もまた傷つき、失い、そして得て、今此処に生きて立っている。

何のために生まれてきたのか
何のために生きていくのか
そんな問いを重ねることは、もう無い。

これまで生きてきた、そうして重ねて来た時こそが
自分が今此処に居ることの答えであり生きていくことの意味なのだと、そう思う。


(清太郎さんにも……いつか、きっと)

清太郎と過ごした日々は決して楽しいものでは無かったが、自分は間違いなく、清太郎が居たから生きて来られた。
清太郎が居たから、自分は今そこに立つ仲間たちに出逢えた。
そのことに対して清太郎に礼を述べることは、まだどうにも面映ゆいし清太郎もそんなことは望んでいないと思う。
けれどいつか──いつかその時に後悔しない自分で居られたなら、互いに胸の内できっとその一言を言えるだろう。
そんな風に、今清太郎のことを思えた自分が、嬉しかった。


ふと、懐かしい母屋を振り返る。
明るく広がる夏空が、目に眩しい。
思わず細めた視界の中で、慈愛に満ちたあの笑顔が頷いてくれた気がした。