空が高く、天へ抜けるような秋の日だった。
その所為か陽が落ちて夜になってからは冴え冴えとした寒さが三郷を襲い、吐く息は白かった。

この時期は空気が乾いてくるため、火事が多くなる。
雨寅弐番組の男達は、駆け足で冬に向かう三郷の町を少々腹に気合いを入れて火の用心を叫んで廻った。
持ち場である北船場、西船場を見廻って、東横堀川に架かる本町橋の袂で、男たちは一旦足を止めた。
小頭の進之丞は何事もなかったことにふうと息をついて、安堵の笑みで皆を労った。
 「したら、お疲れさんじゃったな。俺ァ今夜は、家に帰るわ」
 「はい。ほなら、また明日。お休みなさい、紅寅さん」
京町橋の家へ帰る進之丞は、久太郎町の寅屋へ帰る巳之吉たちとそこで別れた。


夜になっても空には雲ひとつ無く、吸い込まれるように鮮やかな黒色に銀色の月がぼうっと浮かんでいる。
なんとなく、その月を何にも邪魔されず眺めていたくなって、進之丞は町中へ折れずそのまま東横堀沿いを北に歩いた。
三郷は東西へ伸びる道を『通り』、南北の道を『筋』と呼び、この通りと筋が碁盤の目状に走って非常に整然とした町割りを形成している。
だから本町橋から西へ入って西横堀を京町橋まで北上しても、まず東横堀を北上してから西へ折れても、歩く時間はさほど変わらない。

進んでも進んでも、月は同じ位置にある。
当たり前のことだが、ずっと月だけ眺めているとなんだか近づいていけそうな気になって、進之丞は思わず小走りになった。

(我ながら、子供みたいじゃ)

近づけないと分かっていて、でももしかしたら近づけるかも知れないと走ってみたが、やはり近づける訳などない。
気づけば、思案橋まで来ている。
川沿いの紅葉がさらさらと夜風に揺れて、無邪気に月を追いかけた進之丞を笑っているようだった。

 「……笑うなよ」
進之丞はひとりごち苦笑して、そこで足を緩めた。

その時少し強い風が吹いて、紅葉がざあっと音を立てて空を踊った。
そしてその枝の隙間から、思案橋の真ん中に立つ人が見えた。
まさに思案気に川を覗き込む、小柄な姿が月明かりに浮かんでいる。
風がその長い袖を揺らして、橋の向こうへ渡っていった。


風が止み、進之丞の視界の前を、楓の葉だけが音もなく降るように落ちてくる。
何もかも、時さえ止まったような世界の中に、銀色の光を浴びてその娘は立っていた。
あまりに幻想めいていて、一瞬、それは人ではないのではないかとさえ思った。

随分昔に父親が聞かせてくれた物語に、こんな場面があったような気がする。
あれは確か、最後にお姫様が月へ還ってしまうのだったか……


不意に、枯れた音が足下で鳴った。
進之丞が踏んだ小枝の音に、橋の上の娘が振り向いた。

その頭上に、大きく丸い月が浮かんでいる。



紅葉はらはら

 「お嬢さん、お一人で月見ですか」 着ている物は、明らかに町方の娘のものではない。 月明かりで遠目に見える顔は幼くて、まだ十二、三くらいだろうか。 普段通りの言葉では怖がらせてしまうかと思い、かと言って何とはなしに武家言葉も躊躇われて、ついそんな言葉掛けになった。  「……ええ」  「じゃが月はお空の上ですぞ」  「…………」 娘は川から、橋の袂にいる進之丞へちらりと視線を動かすと、無言で手招きしつつ川を指さした。 進之丞はゆっくり橋を渡ると、娘を恐がらせないように腕を伸ばせば届くくらいの位置で足を止めて川を覗き込んだ。 先刻の風にかすかな細波を立てた黒い川の真ん中に、写し取ったような銀色の月が揺れている。 その上に、風に舞った紅葉がふわりふわりと落ちた。  「……こりゃァ、」 東横堀川はあまり広くは無いが、それだけに月を映し紅葉を飾ったその様子は、まるで一幅の掛け軸のようであった。 小さく感嘆の声を上げた進之丞は、思わず呟いた。  「はは、やっと追いついたぞ」  「え?」  「月を、追いかけておってさ。やっぱ近づけんなあと諦めとったんじゃが、こがんとこに留まっておったとはな」 今し方子供みたいだと自分で笑った癖に、相手が子供な所為か、進之丞は興奮して月を追いかけてきたことを告白した。 その上、目の前の光景があまりに見事なのもあって、すっかり芸州訛り丸出しになっていた。  「なら、先に見つけた私の勝ちね」 進之丞の訛りに娘は一瞬目を丸くしたが、そう言って途端に勝ち誇ったような顔をすると満足そうに笑った。 その時やっと、進之丞は娘の顔をまともに見た。 大きくて少し目尻の切れ上がった目にはその言どおりの勝ち気さがのぞくものの、全体的には品のある愛らしい容貌をしている。 やはり年の頃は十二、三歳くらいに思えた。 武家の娘がこんな時間に一人で月見だなどと、尋常なことではない。 しかし進之丞は、天に浮かぶ月と川に揺れる二つの月を目の前に、あなた様は何処のどなたかといきなり誰何するような野暮はしたくなかった。 周囲の音に耳を澄ませつつ、そっと一歩だけ、娘の方に近づいた。  「お嬢さんも、月を追いかけてこがん所まで来てしもうたのか」  「竹取物語って、ご存知?」  「へっ」 遠回しな問いかけに全く筋違いの、しかも問いかけを返されて、進之丞は思わず間抜けな声をあげ、そして先刻脳裏に浮かんだ物語のことを思い出した。  「ああ、竹取物語て、そうか、あれか。竹から生まれたお姫さんが、月に帰ってしまうゆう話じゃったな」  「合ってるのは最初と最後だけだけど──私も、かぐや姫みたいに月に帰れたらなあって思って……」 そう言って再び川に浮かぶ月に目をやった娘を見て、進之丞はやはり身投げするつもりだったのかと内心焦りを覚えた。  「お嬢さんの正体は、月から来たかぐや姫なんか」  「いいえ……」 娘の息が、かすかに荒くなった。 しかし出来るだけ早く橋から娘を遠ざけねばと思う進之丞は、それに気がつかなかった。  「したら、子供は寝る時間じゃ。本当の家は……」 言いかけた途端、娘の身体がぐらりと揺れた。  「──!」 進之丞は咄嗟に腕を伸ばし、橋の上にくずおれる寸前に娘を抱き留めた。 見れば、この気温だというのに娘は薄着で、それなのに額に汗を浮かべている。 すぐ近くに西町奉行所があるが、進之丞は娘を背負うと東へ真っ直ぐ、瓦町の診療所へ走った。