「はあ。あの姫君様が、僕の姉上様におなり遊ばされるという訳ですか」
進之丞から話を聞いた藤野は勿論驚きはしたものの、どこか他人事のように言った。

 「お前、兄上様から何か聞いておらんのか」
 「事前に縁談相手の顔や家を見に来るなど、異例も異例ですからね。正式に事が決まれば報せてくれるだろうと思いますけど」

大名同士の婚姻は一般の武家がそうであるように両家の意思で決められ、事前に顔合わせをするようなことは普通しない。
決め手になるのは相手の家柄や*内証、または公儀の許可であり、当人の意思は大抵そこに反映されない。

 「そもそも鷹司松平家は、紀州とのご縁から松平姓を賜った家です。その紀州の姫とあれば鷹司家の出である僕の母にも礼を尽くしてくださるでしょうし、僕としても嬉しいお話なんですけどね…」
本来なら進之丞にとっては雲の上のような話を藤野は事も無げに言って、そこで言葉を切り窺うように進之丞を見た。
 「…葉姫様は、紀州様の一人娘だそうでな。いわば箱入り娘で、顔も見たことのない男にいきなり嫁ぐいうのが、嫌というより恐いらしい」
 「大名家の婚儀というものは往々にしてそういうものですが、それで事前に見合いを許されるとは、さすが御三家の姫君ですねえ」
藤野は皮肉ではなく、むしろ公儀相手に異例を認めさせた紀州藩に感心したように言って、くすりと笑った。

 「さすが御三家、か…」
藤野の言葉をなぞり、進之丞は小さく眉を曇らせた。
その顔色を察した藤野は、急に心配顔になって身を乗り出した。
 「…もしかして、先日の刺客騒ぎが何か」
 「ああ、うん…」
 「相手の正体が分かったのですか」
 「いや、慶晴様は思い当たることが多すぎて分からんとの仰せじゃった」
 「えっ…」
 「藤野。俺ァな、町人になって良かったとつくづく思うたよ」
進之丞はそう言って、織部や長徳に想いを馳せ苦い笑みを浮かべた。
そして慶晴の、憂いを帯びた端正な顔を思い出した。



話は少し前のことに戻る。
葉の縁談相手が藤野の異母兄信成であると聞いた進之丞は、先の刺客騒ぎもそれに関することだったのかと慶晴に問うた。
しかし慶晴は用人村田からそのことを聞かされていなかったようで、逆に詳しく話をしろと進之丞を問いただした。

 「葉は一人で屋敷を抜け出して迷子になり、具合を悪くして、偶然通りかかったそなたに町医者へ連れて行ってもらったと聞いた。…違うのか」
 「……」

慶晴の声からは先程までの鷹揚さが消え、優しげであった顔は凍てつくような厳しさを湛えていた。
進之丞は慶晴のそんな側面を目にして、思わず背筋を伸ばした。

慶晴は自覚があるほど葉に甘いようだから、葉が夜中に外で熱を出して倒れ、挙句診療所で刺客に遭ったなどとは村田も言えなかったのか。
そういえば村田と乳母のきよは、どうしても一度戻らねばならないと言って診療所に葉を残して行った。
今思えばあれは慶晴の目を誤魔化すためであったのだろうが、結果的にそのことが刺客の女にまんまと襲撃の機会を与えてしまったのだ。
何事もなかったように屋敷に連れ帰ったものの、まさか慶晴自身が進之丞に会いに行くとは村田は夢にも思っていないに違いない。

更によくよく考えてみれば、葉には乳母のきよが居るのだから、地元の娘を雇い入れねばならぬほど女手に困っていた訳でもあるまい。
慌てて女手を増やしたのは、この世子慶晴の身の回りの世話のためだったのだ。
黒江が『先日布団を新調した』と言っていたが、それもまた世子ご滞在に際して一新したものであったのだろう。


(じゃが、なして俺がこがぁな目に……)
進之丞は村田ときよの顔を苦々しく思い浮かべながら、射るような慶晴の視線を受けていた。
村田ときよは彼らなりに事を収めようと腐心したのだろうが、こうなると責任逃れのようにも思えてくる。
それでもまあ武家にはよくあることだと、進之丞は密かに苦笑しながら腹を括った。

ここまで来たらもう話を逸らすことも出来ないし、この若殿に薄っぺらい嘘は通用しない気がする。
守り役や乳母が事なかれ主義であるなら、いっそ慶晴に全てを報せた方が葉の身の安全も確かなものになるだろう。

 「…葉姫様は、思案橋でお月見をしておられました」
 「月見?」
 「はい。竹取物語を知っているかと手前に訊ねられまして、自分も月に帰りたいと…そう仰られて」

銀色の月明かりを映し、紅葉を浮かべた夜更けの西横堀川と、それを儚げに見つめていた葉の姿が鮮やかに思い出される。
その光景が余程印象深かったのか、そこから話し始めた自分の心持ちが進之丞は我ながら可笑しかった。

 「……それで?」
 「いきなり倒れられたので、取り急ぎ町医者にお連れ致しました。失礼ながら身元はお持ちの懐剣にて察しがつきましたので、翌朝手前がお屋敷にお知らせに参り、村田様と乳母のきよ様、そして女中のきぬと名乗る女を診療所に案内しました。しかし姫様が今暫し診療所に居たいと仰せになられ、女中が自分が残るからと申し出たために村田様もそれならとご安心なさり、夕刻に迎えに来るということで一度お屋敷に帰られたのでございますが───その女中が、刺客にございました」
 「女中だと?」
 「はい。手前が席を外した途端に姫様に襲い掛かったものでございますが、姫様はご無事にございました。…ただその女、捕えようとした時に毒を飲んで自害したのでございます。遺骸は診療所で検死をし、村田様のご意向で奉行所には届けず密かに寺へ葬りました」
進之丞は事の次第を告げたあとで、慶晴の傍らに控える櫻井へやや決まりの悪い目線を流した。

 「申し訳ありません、御奉行様」
 「───いや、お前が謝ることじゃない。それより紅寅、お前が姫様を刺客からお助けしたのか」
櫻井は黙した慶晴の代わりにそう聞いて、進之丞はそれに頷いて続けた。
 「姫様は前にも、女中の粗相で手に火傷をされたとか。聞けばその女中らは皆紀州の者では無いということでしたので、取り急ぎそれらの者に暇を与えたほうが良いのではと村田様に申し上げました」
 「なんと…」
櫻井は絶句して、窺うように慶晴を見遣った。
慶晴は閉じていた目を開けると、ふうと息をついた。
 「…左様であったか。知らぬことであったとは言え、そなたにはまず礼を言うべきであったな」
 「どうぞご無用に願います。手前は礼を頂きたくてお話したのではありません。ひとえに姫君様の御身がご無事であればと、そう願うゆえにございます」
 「まず、無礼を詫びよう。その上で、そなたにはあらためて礼を申す」
頭こそ下げはしなかったが、そう言って居住まいを正した慶晴に、進之丞は畏まって平伏した。

 「して、今の話…慶晴様にお心当たりは」
櫻井が一転、奉行の顔になって聞いた。
 「…ありすぎて、分からぬな」
慶晴は笑顔を引っ込めると、嘆息して口元を歪めた。
 「親藩である吉乃と紀州が縁を強固にするのを嫌った者であろうが、私達兄妹が東下することを知る者は限られているからな」
 「では、やはり───」
 「まあ、登城した際にそれとなく話を出してみれば分かることだ。きっと、落ち着きを失くす輩が居ることであろうよ。…それにしても大膳にはきつく叱り置かねばならんな」
そう言って慶晴は怒りを顕わにするどころか、端正な顔に凄みのある笑みを浮かべた。

人の心を悉く読むこの若殿は、それでいて自分の腹の内はなかなか見せない。
しかし今、穏やかで端正な面持ちに隠されたその気性の激しさと冷徹さが垣間見えたような気がする。
進之丞の背を、冷たいものが滑り落ちた。
そして思わず身を硬くした進之丞に気づいたか、慶晴はその笑顔から冷たさを拭った。

 「紅寅、手数を掛けたな。そなたの進言で藩邸から怪しげな者どもを速やかに一掃出来た」
 「───恐れ入りましてございます」
 「これは葉の縁談というよりは私の問題かと思うが、こうして私の耳に入った以上、もう好きにはさせぬ」
 「は…」
 「紅寅。私は安芸守殿と長徳殿が羨ましいよ」
 「え…?」
 「芸州には遠く国を離れてもなお、忠義を尽くすそなたのような男が居る。強い忠義の心は主を強くしてくれるが、権威は増せば増すほど己を孤独にする。…同じく目に見えぬものでありながら、権威とはまこと厄介この上なきものよの」
 「…?」
進之丞は慶晴の言う意味を図りかねたが、慶晴は自嘲気味な笑顔を作っただけでそれ以上は言わなかった。
そしてひとつため息をつくと、櫻井の方を向いて言った。

 「…そうなると、例の件はやはり駄目か、直清」
 「自重されるべきかと存じます」
櫻井にぴしゃりと言われて、慶晴はもう一度はあと息を吐いた。
 「例の件とは…?」
 「そなたに頼みごとがあると言ったろう。だが刺客が放たれているとあっては諦めざるを得まいな…」
 「…?」
進之丞が怪訝な顔をすると慶晴は黒江を目顔で促し、いつしか元気を無くして俯いていた黒江が我に返って言った。

 「葉姫様が、おぬしとこの町を見て廻りたいと仰せられてな」
 「…えっ、」
 「姫君様はそれが叶えば、お心を決めこの縁談に従われると…それで慶晴様も、お輿入れ前の最後の願いとあらば聞き入れようとお考えになられたのだが───」
 「左様にございましたか…」
 「可哀想なことだ。私の妹でなければ、それくらいの望みは叶えてやれたろうに」

慶晴は誰に言うとでもなく呟いて、その顔に複雑な憤りと憂いを滲ませた。
そして当初とは打って変わってどこか元気を無くした紀州の主従が奉行所を去った後、櫻井は進之丞を今一度部屋に誘った。

 「火事の後で忙しいところを、すまなかったな」
 「…櫻井様はどうも、あの若殿様に頭が上がらんようですな」
そう言われて、櫻井はまた子供のような顔をして頭を掻いた。
 「いやァ、俺も若い頃は今より正直に過ぎてな。お陰で城中の年寄りどもには大いに嫌われて良く吊るし上げを喰らったもんだが、そんな俺を面白がって何かと庇ってくださったのが慶晴様なんだ。あの通り若いが頭の切れる御方でな、上様も頼りにされておられる」
 「う、…」
進之丞は、唐突に出て来たその敬称を口にすることさえ出来ずに息を飲んだ。
しかし櫻井を面白がって贔屓する慶晴を気に入っているというからには、上様もさぞ豪気な御方なのだろうと、進之丞は遙か遠い雲の上のその人にかすかな親しみを覚えた。

 「───だから、慶晴様も敵が多い」
 「…およそ、察しは付きます」
 「上様にはお気の毒にも御子が悉く夭折あそばされ、現在将軍家には後継ぎが居られない」
その言葉にはっと顔を上げた進之丞へ、櫻井は含みのある笑みを向けた。

 「俺の言っていること、お前なら分かるだろう」
 「……」

権威は増せば増すほど、己を孤独にする…
そう言った慶晴の寂しげな笑顔の意味を、進之丞はやっと理解出来た。

 「権威に集い保身を考える輩にとって、担ぐ御輿は軽い方がいいのさ」
 「…慶晴様では、立派に過ぎると」
 「そういうことだ。上様もそうお感じになったから、ご自分の御親族である親藩同士の縁を強めたいとお考えになった」
 「……」

しかし十五歳の葉は雪深く寒い上州へ、しかも顔も見たことの無い男の元に嫁ぐのが不安なあまり体調を崩したと言う。
それを聞いた将軍家は余程この話を進めたいものか、大名家同士の婚姻としては異例の事前見合いを提案し、表向きは紀州世子慶晴の将軍へのご機嫌伺いということにして、葉を伴っての江戸経由吉乃行きを命じた。
つまり紀州兄妹の東下は上意で、かつ内々のことゆえ供揃えも最小限にせざるを得なかったのだ、と櫻井は説明した。

 「まあそんな訳でな、俺は慶晴様には恩だけで無く色々と願うところがあるのさ。紀州藩邸には俺からも密かに警護を出してあったのだが、葉姫様のことはまこと迂闊であった。…しかし見つけてくれたのがお前で、幸いだったよ」
 「……恐れ入ります」
 「紅寅、明日から橋の修復工事が始まると聞いてるが、慶晴様もお前が気に入られたようだし、何とか時間を作れねえもんか」
 「有り難き仰せにございますれば、明日の夕刻にでもお屋敷に参じようかと存じます」
 「頼む。俺にも責任の一端はあるからな、俺も行くよ。───折角大坂に立ち寄ってくださったのにこんな事になって、慶晴様もきっと苦い思いをされておられよう」

慶晴が大坂に立ち寄ったのは、旧知の櫻井に会うためであったらしい。
妹を助けた火消の男と櫻井が知り合いだと聞いた慶晴は面会がてら櫻井にその素性を訊ねたが、進之丞が旧藩に遠慮しているのを知っている櫻井は、言わなかった。
それならば直接訊ねてみるまで、とまで言い出されては止められず、櫻井はやむなく多聞を使って進之丞を呼びにやらせた。

 「お前には色々すまなかったが、来てくれて助かった。刺客のことを知らねば、慶晴様は何としても姫君様のお望みを叶えようとされただろう」
 「良き兄上様であらせられるのですな」
 「ああ。…それだけに、葉姫様は慶晴様の弱みでもある」
櫻井はため息をつき、どこか寂しい目をして呟いたのだった。



 「───刺客を操っていた者は、慶晴様のお心を傷つけようとしたということですか」
 「慶晴様ご自身は聡明で胆力もある、油断の無い御方とお見受けした。じゃけぇ相手は、妹君に狙いを付けたもんじゃろう」
 「…なんと、汚いやり方か……」
話の続きを聞いた藤野は、まるでわが事であるかのように憤った。
藤野にとっては近しい親戚になるかもしれない人々のことであり、最早他人事ではないのだろう。

 「…紅寅さん、その葉姫様の願い、なんとかして叶えて差し上げられないものでしょうか」
 「えっ」
 「だって、悔しいじゃありませんか。そんな汚いやり口を使う奴らの所為で、それほどのことも諦めなくてはならないなんて」
 「それほどのことって…お前、大名家の姫君はそがんほいほいと町を出歩くものじゃあないぞ。ましてや葉姫様は、御三家の…」
 「大坂は御天領、徳川家のものですよ。そこを徳川家の姫君様が歩いちゃいけないなんて、おかしいじゃないですか」
 「落ち着け。お前、それァ話の筋がちぃと違うとる」
藤野はさすが大名家の男子だけあってそこらの同い年の少年よりはるかに分別があるが、義憤に駆られやすい所は年相応なのかと、進之丞は内心苦笑しつつもまくし立てる藤野を制した。

 「兄に会いに行かれる旅の途上であんなことがあって、このまま大坂を発たれては御兄妹の気も晴れますまい。僕は松平信成の弟として、そしてこの大坂に暮らす者として、お二人のお心を慰めて差し上げたいのです」
 「……」
 「紅寅さん」
なおも必死に見つめてくる藤野の視線に、進之丞は堪え切れず目を逸らした。

───葉が町を見て回りたいと言い出したのは、恐らく自分があれこれと話を聞かせてしまった所為だ。
知らなければ興味を持つことも無かったろうに、気晴らしにと調子に乗ってしまった自分を進之丞は今更ながら激しく悔いていた。
藤野の言うことは良く分かるし、自分だって本心では同じ思いだ。


権威とは確かに、人の目には見えるものではない。
長徳や慶晴に会ったことの無い者は、彼らを人ではなく権威の象徴として見るのだろう。
かつて藤野自身もそうであったし、それゆえに命を狙われる羽目になった。

しかし自分は有難くも、人としての彼らの想いに直接触れる機会を与えられた。
この手を握った小さな手は、ただの少女のものでしかなかった。
慶晴が見せた寂しげな笑みにだって、確かに自分と同じ年頃の青年の血が通っていた。

一方でやはり彼らは、人であって人ではない。
今や町方に身を置く藤野はともかくも、葉や慶晴に何かあったら事は将軍家にまで及ぶことなのだ。
これが、自分が心から町民であったなら───誠や亥次なら、難しい話はさておき彼らのためにと立ち上がっただろう。
けれど元が武家育ちの進之丞にはその難しい話が理解出来るし、それ故にその事情の複雑さも分かる。
櫻井がわざわざ自分を引き止めてまで全てを話したのは、迂闊な行動を戒める意図もあったに違いないと進之丞は思った。

それでも、心を掛けてもらって置きながら自分はこんなにも無力だと、そう思わざるを得ない。
進之丞は空しさと己の責任を噛み締めながら、藤野の肩を叩いた。


 「…お前は俺を買いかぶりすぎじゃ」
 「紅寅さん───」
 「何かあっても、掻っ切る腹は今の俺には無いんよ。俺はただの、一介の町火消に過ぎん」
 「……」
 「力及ばずじゃ、許してくれ」
進之丞はそう言って、唇を噛んで藤野に手を仕えた。
いきなり土下座された藤野は驚いて、慌ててその肩を起した。
 「ご、ごめんなさい、紅寅さん。無理を言いました。かつては僕の為に、紅寅さんや寅屋の皆を危険な目に遭わせてしまったというのに」
 「……」
 「でもあの、せめて、僕も紀州藩邸に同行させて頂けませんか。控えの間でも構いませんから」
 「うん、…ごめんな」

事が藤野の兄も関わることだけに黙っているのも水臭いかと思って話したのだが、かえって藤野にも空しい思いをさせてしまったと思った進之丞は、詫びを口にした。
再び謝られた藤野は、逆に進之丞を慰めるように微笑んで見せた。

 「明日、鶴屋で美味しいお菓子を買ってきますよ」
 「…うん」

進之丞は無力感に打ちのめされながら、もう随分と冷たくなってきた夜風の中を家路に着いた。
落ちて乾いた紅葉の葉が風に巻かれ、足下をからからと通り過ぎて行った。