「お前はようもまあ、お姫さんばかり拾うて来るよなあ。もっとも、こないだのは男やったけど」

瓦町診療所の内科医師、和田弘斎は呆れたような感心したような声で言って、男前な笑みを見せた。
役者のような二枚目の癖に口の悪い男だが、今みたいな夜中でも急患と聞けば一も二もなく診てくれる、信頼の置ける医師だ。

 「好きで拾うた訳と違うし、大体、藤野を拾うたんは織部よ。ほいで、あの娘は?」
 「夜の冷え込むこの時期に、あないな薄着でほっつき歩いたら風邪も引くわな」
 「ただの風邪?」
 「うん。薬飲んで滋養のつくもの食べて、二、三日ゆっくりしてりゃ良うなるやろ」
弘斎はそう言うと、自ら茶を煎れて進之丞に勧めてくれた。
それを一口飲んでやっと人心地ついた進之丞を見遣りつつ、弘斎はやや眉を曇らせた。

 「ほっとすんのは早いで。あないお姫さんが着の身着のままで、こないな時間に一人で外に居ったやなんて尋常なことやあれへんぞ」
 「分かってるよ。ほいで何か、身元の分かるもんはあった?」
 「ああ。懐剣を持っておられてな……紋が入っておったんやけど」
 「それなら調べりゃすぐに分かるじゃないか。紋は何じゃった」
 「いや、多分、調べるまでもないと思う」
分かっている風なのに言葉を濁した弘斎を、進之丞は訝しげに見上げた。
 「何よ。先生の知っとるご家中か」
 「その──丸に、三つ葉葵……」
 「げっ……!」
進之丞は驚きのあまり、絶句してしまった。
弘斎の口が鈍るのも然り、である。

 「さすがに俺も、手が震えたで。うっかり下手なとこでも触ったら首が飛ぶわ」
 「……俺、お嬢さんとか言うてしもた」
 「そら、世良さんに今生の別れを言いに行った方がええな」
弘斎は軽口を叩きながらも、口元が引きつっていた。
 「冗談はさておき、とりあえず奉行所に報せた方がええんちゃう」
 「そ、そうする……」
平素は武家の者に気後れなどすることのない進之丞だったが、相手は将軍家一門の、それも姫である。
弘斎ではないが、さすがの進之丞も手が震えてきた。

 「あ、その前に。お姫さんを奥へ運んでんか」
 「ええっ、なして俺が」
 「あとで何か言われたら俺、困るもん」
弘斎はしれっと言ったが、それは自分だって同じだ。
しかも自分は一介の火消で、曲がりなりにも医師である弘斎の方が、それこそ『何か』あったときは弁解のしようもあるはずだ。
けれど
 「お前が拾うて、いやお助け申し上げたんやさけ、お前が責任持って運べ」
そう言われては、頷かざるを得なかった。


そっと診察室を覗くと、不幸にも件の姫は目を覚ましていた。
まだ寝ていてくれた方が良かったと進之丞は内心ため息をついたが、姫の方は進之丞の顔を見るなり、熱に紅く染まった頬をほっとしたように緩めた。
 「どこへ行ったのかと思いました」
そう言われて進之丞は最早観念し、後ろ手に障子を閉めて姫の前へ片膝を付いた。
 「ご気分は、いかがにございますか」
 「え」
 「此処は、この町で一番腕の良い医師の診療所にございます。お風邪を召されたようですが、薬を飲んで栄養をつければ二、三日で治るとの診立てにございました」
 「……そなたは、」
急に言葉をあらためた進之丞を見て、姫は怪訝そうな顔をした。
 「手前はこの大阪三郷で町火消を務めます、寅屋の紅寅と申します。先刻の無礼な振る舞い、何卒お許し下さい」
 「……火消、」
 「左様にございます。姫がお休みになっているかと思い、取り急ぎこれから奉行所に参るつもりでしたが、お目覚めになられたのであれば御屋敷へお知らせに……」
 「私は、ようです」
姫は進之丞の言葉を遮り、葉と名乗った。
が、お葉様などと口に出来るはずもない。

 「左様でしたか、葉姫様。して、御屋敷は……」
 「そなたにその言葉遣いは、似合わない」
 「…………」
鹿爪らしく話していた進之丞は、そう言われて思わず閉口した。
しかし進之丞が黙り込んでしまうと、葉は急に不安そうな顔をした。
 「紅寅」
 「は」
 「今夜は、此処に居て。私たち、共に月を捕らえた仲間でしょう……」
葉は進之丞の緊張を解きほぐそうとしたのか、そう言って笑おうとしたが、途端に咳き込んで咽せた。
進之丞は慌てて水差しを取ると、その肩を抱いて水を飲ませた。
 「熱があるのです。もう横におなりになってください」
 「…………」
寝かしつけられながら葉は進之丞を縋るような目で見上げ、その手を握りしめた。
熱の所為なのか、その瞳は潤んで今にも涙が零れそうに見えた。
必死にしがみついてくる小さな手も、ひどく熱い。

いつだったか──多分この姫と同じ年頃、まだ芸州に居たときに、やはり高熱を出して寝込んだことがあった。
父の鼎はいつも帰りが遅く、進之丞は世良家に居ることの方が多かったが、その時ばかりは織部に風邪をうつしてはいけないからと、鼎は仕事を休み家で進之丞の看病をした。
その父が、腰を上げる度にどこかへ行ってしまうのではないかと不安になって、繋ぎ留めるように手を握っていたことを思い出す。

 「お側に居りますゆえ、ご安心を」
進之丞はふと遠き日の自分を思い出し、そう言って葉に優しい笑顔を向けた。
 「ただ、この部屋はいつ急病人が来るとも限りませんので、奥へお運び申します。よろしゅうございますか」
そう訊くと、葉は進之丞の手を握ったまま素直に頷いた。
進之丞はその手を一度ぎゅっと握り返してから手を離すと、枕元に畳んであった帯と懐剣を葉の胸元に置き、そして布団ごと抱え上げた。

廊下に、灯りを持った弘斎が待っていた。
妙に感心したような顔をしている弘斎へ進之丞は照れ隠しのしかめ面を向けると、無言で奥へ行く灯りに続いた。
弘斎は一番奥の部屋へ進之丞を案内し、目顔で頼むと頷いて無言のまま障子を閉めた。

部屋の中には炭火が熾きていて、水や手ぬぐいの他に進之丞のための茶まで用意してあった。
弘斎の手配りの早さと気遣いに感心と感謝をしつつ、進之丞は葉をそっと床へ下ろした。
そして手ぬぐいを水で絞ると、小さな額の上に置いた。

 「紅寅の言葉は、西の方ですね。芸州か、備中か……」
 「!」
その可憐な唇から突然故郷の名が出て、進之丞は思わず身を竦めた。
自分は藩を離れた身ではあるが、今も芸州とは浅からぬ縁がある。
万が一にも芸州浅田家に──織部に、迷惑がかかるようなことがあってはならない。

 「どこでもいいわ。ただ、あの訛りが好きだなと思っただけ。……だから、さっきみたいに普通に話して」
そう言って葉は、再び布団から手を出した。

葉は、進之丞が出自を明かすのを躊躇ったことに気がついた。
身分高き家の姫など我儘放題に育っているものかと思いきや、葉は言葉遣いもしっかりしているし、人の顔色を察することも出来る。
進之丞は密かに感心したが、そうは言ってもまだ子供であることに変わりはない。
進之丞は布団の中から差し伸べられた熱く幼い手を、そっと握った。

 「約束したけん、ちゃんと此処に居る。お喋りは、熱が引いてからな」
いつもの調子で言うと、葉は一瞬目を丸くした後でにこりと微笑み、そのまま眠りに落ちた。
寝息が聞こえ始めて進之丞はやっと少し気を緩め、小さく息をついた。


夜廻りの日は基本的に寅屋に泊まるから、今晩帰らなくても織部は別に心配しないだろう。
朝も、朝食が終わるまでに寅屋に行ければ普段通りだ。
問題は、この姫の屋敷の方である。

三つ葉葵紋を許されているのは、水戸・紀州・尾張の徳川御三家である。
同じ徳川葵でも御三家それぞれで葉の模様が少しずつ違うから、武家の者なら見ればどこの家か分かる。
進之丞は葉の手を握ったままもう片方の手を伸ばし、枕元に畳んで置いた帯の上にある懐剣を取った。
炭火のかすかな灯りに注意してかざすと、黒漆塗りに金蒔絵で家紋を施した、見事な拵えがぼんやりと見えた。

(紀州の姫君か)

紀州和歌山藩、五十五万五千石。
八代将軍吉宗の実家であり、徳川家が治める前は、進之丞が今も主家と仰ぐ浅田氏の所領地であった国である。
葉と出逢った思案橋からそう遠くない、東横堀川と大川の合流点を少し東に行ったところに紀州藩の大坂屋敷がある。
そうと分かれば出来るだけ早い内に報せに行くべきだが、葉は屋敷の場所を言おうとしなかった。
葉がこんな夜中に屋敷を抜け出し、一人橋の上に居た理由は一体何なのか──

 「乗りかかった船とは言うが、こりゃァでかすぎじゃろう……」

進之丞は思わず苦笑と共に呟き、幼いその顔を見つめた。
夜はまだ深く、薬が効いてきたのか、葉の寝息は少しずつ穏やかなものになっていった。
御三家の姫であろうと、寝顔はこんなにも他愛ない。
自然と頬が緩んで、進之丞は慈しむように握った手を撫でた。

ふと指先に違和感を覚えて見てみると、小さな手の甲にまだ紅い火傷の痕があった。
滑らかで、ふくふくとした肌に付いた、生々しい紅い傷──

進之丞は思わず眉を顰めた。
そしてその火傷の痕を、早く消えるようにと祈りながら一晩中撫で続けた。