「起きとるか」
 「俺は起きとる」

そう答えると、そっと障子が開いて弘斎が顔を覗かせた。
少し赤い目をした進之丞を、気遣わしげに見る。
 「一睡もしとらへんのか」
 「出来るわけなかろうよ」
進之丞が小声で苦々しく言うと、弘斎はしっかりと繋いだ手を見て小さく笑った。
 「随分、懐かれたなあ」
 「病気の子供はみな心細いもんじゃろ」
 「はは、良う分かっとるな。お前、子守り向いとんちゃう」
弘斎はいつもの軽口を叩きつつ、そっと葉の額に手を当てた。
 「うーん、まだちょっと熱あるかな」
 「先生、俺今から御屋敷へ報せに行ってくるわ」
 「どのご家中の姫君か、分かったんか」
 「ああ、紀州藩じゃった。この御方が目ェ覚ます前に出んといけんけえ、あと頼む」
 「き、紀州様て……ちょ、ちゃんと戻って来てや」
 「うん。そん代わりゆうたら何じゃが、あとで寅屋に使いを出して、藤野を呼んでくれる?昼前くらいに来るようにって」
 「分かった」
進之丞は一晩中握り続けた葉の小さな手を離すと、腰を上げかけてふと止めた。

 「先生、姫様の手の甲の、火傷なんじゃけど」
 「あ、ホンマや。まだ新しな」
昨夜は逆の手で脈を取ったから気づかなかったと、弘斎は言った。
 「大丈夫、きれいになるよ。薬、塗っておくさかい。心配要らん」
その身体に遺る傷跡を知っている弘斎は、進之丞を安心させるように笑って言った。
進之丞はその笑顔に頷くと、まだ明けの明星が光る空の下を紀州藩邸に向かって駆けた。


夜明けに訪れた、ザンギリ頭で紅い衿に黒地の着物を着流した男を、紀州藩邸の門番はひどく胡散臭い目で見た。
せめて寅屋の半纏を持ってくれば良かったと後悔しつつも、進之丞が葉姫の名を出すと、門番は飛び上がらんばかりに驚いて邸内に駆け込んだ。
そして紀州藩用人村田大膳だいぜんと名乗る老武士と、女が二人門前へやってきた。
一人は少々肥えた年の頃四十くらいの女で、もう一人は二十半ばほどの、賢そうな娘だった。
肥えた女は乳母のきよ、娘の方はお付きの女中で、きぬと名乗った。
三人とも、憔悴しきった顔をしている。
特にきぬの方は自分が外した折に葉が居なくなったとのことで、相当責められたものであろうか、青ざめていた。

 「その方が、姫君様を……」
 「はい。手前は大坂三郷北組雨印の町火消、寅屋の紅寅と申します。昨晩夜廻りを終えて自宅へ帰る途中の思案橋にて姫君をお見かけし、迷子にでもなられたのかと思い率爾ながら御屋敷を尋ねようとしましたところ、急に倒れられまして」
そこまで言ったところで、乳母は引きつったような声を上げた。
 「あ、いや、そこから近くの瓦町に腕の良い医者が居りまして、取り急ぎそちらへお運び申しました。医師の診立てでは少々お風邪をお召しになったようですが、すぐにお薬を飲まれ今は穏やかに眠っておられますゆえ、ご心配は無用です」
 「……その方、火消と申したか」
 「は」
用人村田は、町人のくせに武家言葉で話す進之丞を少し訝しげに見て訊ねた。
 「姫が、自ら名乗られたのか」
 「いえ、何度かお尋ね申し上げましたがお答えになろうとせず、熱も出して居られましたのであまりご無理をさせてもと……こちらのことは、ご無礼を承知で姫君がお持ちの懐剣を拝見仕り、察した次第です」
 「左様か。では早速すまぬが、その診療所へ我らを案内してくれ」
 「かしこまりまして御座います」
あらためて一礼した進之丞は、用人村田と乳母きよ、女中きぬと共に、夜の明け始めた町を再び瓦町へ向かった。


葉はすでに目を覚ましていて、弘斎の介添えで粥を食しているところだった。
進之丞に案内されてきた三人は、その姿を見るなり泣かんばかりの勢いで膝を付いた。
葉は三人の顔を見てあっという顔をし、そして俯いてしまった。

 「ひ、姫様──どれほどご心配申し上げたことか。爺は、生きた心地がしませんでしたぞ」
 「……紅寅、どうして」
葉は村田の嘆きには答えず、小さく進之丞を睨め付けた。
進之丞は、案内だけして部屋に入らねば良かったと後悔したが、もう遅かった。
 「裏切り者。嘘つき。側に居るって言ったじゃない!」
答えない進之丞に葉は癇癪を起こし、弘斎の手から椀を奪って投げつけた。
粥椀は中身をぶちまけて布団の裾を濡らした。

 「姫様がお寝坊なんがいけんのじゃ。俺ァちゃんと一晩中側に居ったぞ」
 「な……」
その言い様に葉も、他の皆も呆然と進之丞を仰ぎ見た。
進之丞は内心ではさすがに恐れ多いと思いながらも、せめて普段の言葉でと望まれたことくらいは守ろうと、敢えて言葉遣いをあらためなかった。
 「それより、食い物を粗末にしたらいけん。これはな、先生の妹のおよねちゃんが、姫様の病気が早う治るようにと作ってくれたもんなんじゃぞ」
進之丞は少し強い語調で言うとゆっくりした動作で椀を拾い、懐から手ぬぐいを出して布団を拭った。
乳母のきよが何か言おうとしたが、横から村田が制した。
葉は、布団をきれいにして顔を上げた進之丞を泣きそうな顔で見つめた。
 「……ごめんなさい」
 「うん」
進之丞はそこに腰を下ろしてからりと笑うと、目顔で村田を促した。
村田は頷き、葉に向かって膝を進めた。

 「姫様、お加減はいかがにございますか」
 「…………」
 「あー、まだ少々熱がありますが、滋養のつくものを食べて三日ほど薬を続ければ良いでしょう」
答えない葉のかわりに、弘斎が答えた。
 「さすれば、屋敷にお連れ申しても大丈夫にござろうか」
村田が少しほっとした様子で言った途端、葉は隣にいた弘斎にしがみついた。
 「!?──姫様」
 「嫌です、いや」
 「葉姫様、」
 「だって、熱が引いたらお喋りするって言ったじゃない……!」
葉は弘斎にしがみついたまま、障子の側に居る進之丞を見据えた。
その視線を追った皆の目が再び自分に向いて、進之丞は思わず狼狽えた。
 「いやあの、昨夜なかなかお休みになろうとせんので、お喋りは熱が引いたらと申し上げたまでです」
 「……何か、姫様と話をしたか」
 「いえ、それですぐ寝付かれましたので」
 「左様か」
村田の目に一瞬浮かんだ鋭い光が、何も話していないと聞いて安堵に変わった。
 「そうよ、だからまだ、何もお喋りしていないの」
葉が叫ぶように言った。
しがみつかれた弘斎は、すっかり困った顔で葉を見下ろしている。

 「村田様、姫様はまだお熱があるとのこと、あまり興奮させては……」
女中のきぬが、葉を気遣うように見た。
 「お医師も居られることですし、この者とお喋りをすればお気が済まれるのでしたら、今暫く此方に居られてはいかがにございましょう」
 「しかし、葉姫様は……」
 「私が残りますから。夕刻にでも、お迎えに来ていただければ」
きぬの言葉に、葉は何度も頷いて村田を見つめた。
 「屋敷にも医者は居る。姫様、この者とお話しされたいなら、屋敷に招かれてはいかがにございましょうか」
村田の提案に進之丞は驚いたが、葉は即座に首を振った。
 「葉は、お医者は弘斎先生が良いです」
 「しかし姫様、この者は町医者ですぞ」
一刻も早くこの場を去りたいのであろう村田は苛々し始めたか、助けられた恩も忘れて弘斎に無礼な物言いをした。
 「ああそうか、そない言わはるなら、こっちは別に──」
 「おっ、恐れながら!」
弘斎は大坂の町屋育ちだから元々侍に対する遠慮がない上に、気が短く口が悪い。
かっと来た弘斎が言い返そうとしたところを、進之丞は咄嗟に声を上げて遮った。

 「む、村田様にお尋ね申しますが、蘭学者の高田宗斎先生をご存知でございますか」
 「我が藩は吉宗公以来蘭学の活発な地なれば、当然存じておる。城下には高田殿の弟子も大勢居るが……それがいかがした」
 「こちらの和田弘斎先生はその高田先生の高弟にございまして、二年ほど前に高田先生がこの診療所に立ち寄られた折は、弘斎先生が手術の助手を務めたりもなさいました」
 「なんじゃと?」

蘭学を日本に広めたのは、漢訳蘭書の輸入禁止を緩和した八代将軍吉宗であるとされている。
それゆえに紀州藩の者なら、全国を教え歩いている高田宗斎の名を絶対に知っているだろうと進之丞は踏んだ。
織部の目の手術のことまで引っ張り出した進之丞は、我ながらあいつに似てきたとそんなことを思いつつ、弘斎にだけ見えるように小さく笑って見せた。
そんな進之丞に、弘斎は苦笑を返した。

 「あとは姫様のお気持ち如何ではないでしょうか。病は気からと申しますし、手前で気が晴れるのであれば、今日一日姫君様のお相手を勤めさせていただきます」
 「紅寅、本当に?」
葉の顔が、ぱっと輝いた。
あまりに素直な表情が可愛らしくて、進之丞はつい噴き出してしまった。

しかし大藩の姫君をお供の女中一人のみで残すのはどうかと思わないではなかったが、村田と乳母はどうしても藩邸に戻らねばならぬと言う。
ここが高田宗斎の弟子が営む医院と聞いて安心もしたのか、夕方には迎えに来ると言って葉ときぬを残し、紀州の二人は丁寧な礼を述べて藩邸へ帰って行った。