「これ、どがぁしたん?」
今は包帯を巻かれた葉の右手を指して、進之丞は気遣わしげに訊いた。

 「ああ、これ。この間、おたみがお茶をひっくり返してしまったの」
 「おたみゆうのは、女中か?茶をひっくり返しただけじゃのうて姫様に火傷さすなんて、そそっかしな」
 「ええ、それでおたみは暇を出されてしまったわ」
 「紀州に帰したのか?」
 「いいえ、おたみは大坂の娘です」
 「ふうん……?」
藩邸には地元で雇った下働きの者も当然居るだろうが、普通、主家の姫君の側にそのような者を付けるだろうか。
進之丞はふと疑問に思ったが、まあ茶を出すくらいなら有り得るかと思い直したとき、外から声を掛けられて思考が止まった。

 「紅寅さん、ちょいと」
声を掛けた診療所の小者に今行くからと答えて、進之丞は葉に少し席を外すと告げた。
 「なにかあったの?」
 「ああ、俺の仕事先のモンが来たんじゃ。寅屋いう大工の店なんじゃがな、今日は一日仕事休むけぇ頭に言付けを頼もうと思うてな」
 「あ……葉のせいで、」
それを聞いた葉は、途端にすまなそうな顔をした。
 「ええのよ。俺ァどうせ大工仕事はしとらんけぇ、昼間はぷらぷらしとるだけじゃし」
 「折角だから、こちらにお呼びして……」
 「なりません、姫様」
部屋の隅から、きぬの厳しい声が飛んだ。

さすがに葉を進之丞と二人きりにする訳には行かないし、また進之丞もあらぬ疑いを持たれても困るので、同じ部屋にきぬも居ることになった。
きぬは進之丞と話したいという葉の邪魔にならないよう部屋の隅に控えていたが、当然ながら此処に第三者を呼ぶ事には反対した。
葉はやや拗ねたように横を向き、進之丞は苦笑した。

 「今日のことは内緒ごとじゃけん。俺と姫様の、二人の秘密よ」
進之丞は唇に人差し指を当て、子供のように笑って見せた。
実際はきぬも居るし、葉がここに居ることを知っている者は他にも居るのだが、そう言われた葉は機嫌を直したようだった。
 「戻ってきたら、昼飯じゃな」
進之丞はそう言って、一旦部屋を出た。
そして診療所の土間まで出た途端、驚いて目を瞠った。


 「織部……」
 「──進之丞!」
織部は進之丞の顔を見るなり抱きつかんばかりにして、その顔を両手で覆った。
いきなり間近に迫ってきた顔に、進之丞は思わず頬を赤らめた。
 「なっ、なして、」
 「なしてじゃあないわ、お前、昨夜は家に帰ってくる言うたそうじゃないか。てっきり寅屋に泊まってるもんじゃ思うとったのに、今朝久馬くんにそがん聞いて血の気が引いたぞ。慌てて寅屋へ行ったら診療所に居ると聞いて、飛んで来たんじゃ。また悪い奴に絡まれたのか、怪我は?」
 「ちょ、落ち着け……」
 「ちゅうかお前、こがんとこ出てきて大丈夫なんか。寝てんといけんのと違うのか」
織部は青い顔で進之丞の身体を撫で回した挙げ句、進之丞を抱き上げようとした。
その後ろで弘斎の、笑いを含んだ声がした。
 「世良さん、紅寅は患者を連れてきて、付き添うとっただけや」
 「えっ」
 「落ち着け言うとるじゃろ!放せ、馬鹿織部!」
進之丞は耳まで真っ赤にしながら織部の腕の中で暴れ、後ろで笑っている弘斎と藤野を睨みつけた。

昼時で患者が居なくてよかったと思った、その時だった。
奥からかすかな悲鳴が聞こえた。
それは子供の声だと、すぐに分かった。

進之丞は織部の腕を振り解くと、奥へ向かって一目散に走った。
訳が分からないまま織部と藤野、そして弘斎もその背を追った。


 「──姫!」
進之丞が部屋の障子を開けると、なんと女中のきぬが短刀を振りかざして葉に襲いかかっていた。
きぬを引っぺがそうと進之丞が後ろからその帯を掴んだ時、切っ先が素早くこちらを向いた。
 「……ッ!」
刃は、咄嗟に身を引いた進之丞の頬を掠めた。
きぬが体勢を崩したその隙に、葉は素早くその足元をかいくぐって進之丞の背後へ逃げた。
進之丞は背に葉を庇いながら、自分が丸腰であることに気がついてはっとした。

瞬間、体勢を立て直したきぬが別人のように冷酷な表情で振り向き、進之丞に向かって短刀を振り上げた。
その時、背後から駆けつけてくる織部の足音が聞こえた。

 「進之丞!」
 「織部……!」

進之丞は叫んで葉を胸の中に抱え込むと、きぬの刃を避けながら廊下へ転がり出た。
足元に倒れ込んできた進之丞に織部は驚いたが、短刀を構え直して出てきたきぬを見るとすかさず抜刀した。
侍が来たことに狼狽えたきぬが、はっと足を止めた。
織部はその一瞬にきぬの短刀を刀で弾き飛ばすと、そのまま頭を下げ肩から体を入れるようにして突っ込み、きぬの柄腕を取ろうとした。
きぬは織部が刀を持つ手とは逆の方へ避けたが、織部はすかさず左手で鞘を抜き、きぬの背中を強か打った。
縁側から転げ落ちたきぬは、庭に手を付いて咳き込んだ。

 「女、よくも──」
織部が刀を抜いてからの、その見事な一連の動作に進之丞はつい見惚れてしまっていたが、織部の声の冷たさに我に返った。
織部は自分に刃を向けた者に、容赦はしない。

 「織部、斬ってはならん!」
 「!」
進之丞の声を聞いて織部が動作を止めたその一瞬に、倒れていたきぬが壁に向かって低く地を蹴った。
 「紅寅、これを」
胸の下で言った葉の手に、三つ葉葵の懐剣があった。
進之丞は咄嗟にそれを取って抜くと、塀を乗り越えようとしているきぬへ向かって投げつけた。
 「!うっ……」
懐剣は脚に刺さり、きぬがよろめいた。
織部が素早く走り出て、きぬの柄腕を取ると後ろへねじりあげた。
 「進之丞、この女は……」
織部に押さえつけられて地面に膝をついたきぬは、悔しげに顔を伏せた。

 「!──あっ、駄目だ!!」
突然叫んだ藤野が、慌ててきぬの口を開けさせようとした。
しかしきぬは手を口の中に突っ込んで、がくがくと数度身体を揺らしたかと思ったらかすかな呻き声を上げ、だらりと頭を下げた。
 「!?なっ……」
 「この女は玄人ですね」
女が突然死んだことに吃驚している織部に、藤野は冷静に告げた。
葉には見せまいと、その身体をすっぽりと腕の中に収めた進之丞は、呆然と織部と顔を見合わせた。