瓦町の診療所に、本日休診の札が出たのは昼過ぎのことであった。
織部たちが来たのはちょうど午前の診療が終わった後だったから、昼に診療所の奥で起きた事件は誰にも知られずに済んだ。

きぬの死体が検死に運ばれると、進之丞は葉をよねに託して織部と藤野を別室へ誘った。
そこで昨夜、思案橋で葉を助けて以降の話をした。
いきなりの刃傷沙汰に加え、騒動の元が大名家の姫君と聞いた織部は驚いたが、それ以上に進之丞の傷が気になるようだった。

 「思えばあの女、姫様を手に掛ける機会を狙うておったんじゃろう。姫様が此処に残りたい言うのをご用人は止めたのに、あの女が自分も残るけぇ言うて……」
進之丞は、葉が自分に懐いているのをきぬに利用されたことが悔しくて、唇を噛んだ。
織部はそんな進之丞に気遣わしげに寄り添いながら、斬られた頬を晒しで押さえる姿を険しい顔で見ていた。
 「大丈夫じゃって。薬塗ってもうたし、もう血も止まったけん」
その視線を感じた進之丞は織部を宥めるように言って、晒しを外して見せようとした。
確かに血は止まっていたが乾いて布がくっついてしまっていて、頬の皮膚を引っ張られた進之丞はあいてて、と顔をしかめた。
 「馬鹿、宛てておけ」
織部は慌てて進之丞の手を押さえつけると、心配そうに眉を下げた。
 「……痕、残らんじゃろうか」
 「これくらいなら大丈夫て、さっき先生が言うたろ。お前は全く、心配性じゃなあ」
そう言いながらも進之丞は、織部がこれほどに自分を心配する心情を分かっていた。

織部は進之丞の身体に消えない傷痕があることを自分の所為だと思うあまり、それ以上の傷が付くことを何より心配する。
この傷をこさえた時のことを思うと、織部が頑なに自分の所為だと思いたがる気持ちも分かる。
だから、火消という仕事柄小さな火傷などは当たり前のことなのだが、進之丞は織部と再会してから火消装束を前以上に万全にして決して肌を出さないようにしていた。

照れくさい時もあるけれど、大の男に対して過保護にも見える織部の態度が、織部自身の心の傷に由来していることは分かっている。
そして、穢れてしまったと思っていたこの身を、この肌を、織部がどれほどいとおしんでくれているか、知っている。
主持ちの手前決して言葉にはしないが、この男は自分のためには命も惜しまないだろうことも。
そんな織部が、何を置いても診療所へ駆けつけてくれたことが嬉しいやらほっとしたやらで、進之丞はいとおしげにその顔を見つめた。

 「じゃが、頬で幸いじゃったよ。あの女、確実に俺の首筋を狙ってきた。避けるのが遅かったら今頃は……」
 「あの女は、玄人でしょう」
織部と進之丞にすっかり当てられて、苦笑しつつ二人を眺めていた藤野が、進之丞の呟きにもう一度言った。

進之丞も、きぬの刃が自分へ向いた瞬間にそう感じた。
それだけに、織部がその場に居合わせてくれたこと──そしてその幸運を生んだ織部の心配性につくづく感謝した。

 「あの女が顔に手をやったとき、ぴんと来ました。恐らく歯の中に仕込んであった毒物を飲んだのでしょう、良くある刺客の手口です」
 「藤野……」
 「そういったことは、さんざん聞かされてきましたから」
藤野の声は落ち着いたものだったが、織部と進之丞はあらためて彼が背負っていた奥深い闇を感じずには居られなかった。

 「紅寅さん。もしかしてあの娘さんは、紀州の姫君様ではありませんか」
 「えっ!」
進之丞はあえて──織部のために、その藩名と葉の名は伏せて話していた。
何故、と思って藤野を見ると、その手に三つ葉葵の懐剣があった。
 「あっ……」
 「この三つ葉葵は紀州様のものですよね」
 「…………」
 「そういった家の姫が大坂に居られるということは、」
 「お国入りして花嫁修業か、それとも何処かへお輿入れが決まったのか……」
織部があとを引き取って言い、進之丞を振り見た。
 「とにかく、一刻も早う紀州藩邸へ報せねばならんな」
 「織部、お前は帰れ」
 「えっ」
 「分かるじゃろ、お前はもうここに居ったらいけん。余所様の揉め事に下手に関わって、後で何があるかも分からん」
 「……進之丞、」
 「俺が事の次第をご用人殿に申し上げて、姫様をお返しする。俺に出来るのはそこまでじゃけぇ、心配要らんよ。今日の夜には帰るけん」
進之丞はそう言って笑顔を作って見せた。

正直、乗りかかった船は大きいとは思ったが、こんなことに巻き込まれるなんて想像できる筈もなかった。
葉が夜中に屋敷を飛び出したのは刺客の存在に気づいていたからなのか──しかし、分かったとして自分に何が出来る訳もない。
葉はあまりにも、自分と住む世界が違いすぎる。

そこでふと、進之丞は竹取物語のことを思い出した。
 「なあ、竹取物語って、どがぁな話じゃったっけ」
 「なんね急に」
 「ええから」
 「ええと、爺さんと婆さんが光る竹を切ったら小さなお姫さんが出てきて、金持ちになったり病が治ったりして……ほんで最後は帝を袖にして月に行ってしまうんよな」
 「帝を……」
 「ああ。自分は月の都の女じゃけぇ、地上の者の思い通りにはならん言うて帰るんじゃなかったか」

私も月へ帰りたい──葉は、そう言った。
数多の求婚者を袖にして、自分の故郷である月へ帰ったかぐや姫を、己に重ねて言ったのだろうか。

銀色の月明かりの中に浮かんだ、小柄な影。
最初から彼女は幻想めいていて、自分にとってこの世の人では無かった。
手を繋いでいたついさっきまでのことさえ夢のように思えて、進之丞はぼんやりと寂しさに囚われていたが、不意にそれを藤野の声が遮った。

 「竹取物語って、諸説あるそうですよ」
 「うん?」
 「僕の知ってる話は先生のとちょっと違います。──帝は確かにかぐや姫に結婚を断られるのですが、諦められずある日自らお出ましになって、かぐや姫がこの世の人ではないことを知ってしまわれるのです。けれど二人は歌をやりとりするようになり姫も帝を慕いはじめるのですが、やがて月へ帰る日が近づいてくる。それを知った帝は姫を月へ帰すまいと軍勢を送るものの、月から迎えに来た天上人たちを前に何も出来ず、姫は月へ帰ってしまいます。別れ際に姫は帝へ恋文と不老不死の薬を贈ったのですが、帝は姫の居ない世で不老不死であっても意味がないと、それを最も天に近い高き山の上で燃やすよう命ぜられた。それからその山は不死の山と呼ばれ……」
 「もしかして、富士のことか」
 「そうです。そして富士の山からは、常に煙が立ち上っているとか」
 「はあ、竹取物語にそがん落ちがあったとは知らなんだ」
織部は堅物らしくあまり風情のない言い方をして、頭を掻いた。
 「して、なして竹取物語ね」
 「いやなに、姫様に話して差し上げようと思うたんじゃが、俺もあまり覚えてなくてな」
進之丞がそう言って小さく笑ったとき、障子の外でよねの声がした。

 「紅寅さん、姫様が、紅寅さんは何処に行ったんかって言うてはる」
 「ああ、今行くよ。検死は終わった?」
 「もう間もなくやと思います」
この診療所でも何度か奉行所からの頼みで検死は行っているが、診療所内でこんな騒ぎはさすがに初めてで、よねはまだ少し青い顔をしていた。
 「およねちゃんも、吃驚したじゃろ。姫様は俺が見るけん、ちょっとゆっくりしとり」
 「は、はい」
 「藤野、すまんが頭には適当言うておいて。くれぐれも紀州様の名は出すなよ」
 「大丈夫、心得ております」
藤野は、進之丞が自分を名指しで此処へ呼んだ意図を既に分かっていて、微笑んで頷いた。
 「織部、お前は帰れよ。ええな」
進之丞は織部に念を押して、葉の待つ部屋へ向かった。


 「奥歯に穴ァ開けて、そん中に毒を仕込んであった。かぶせものを外して強く噛みしめれば、あっという間にお陀仏ってえ寸法だ」
きぬの検死をした剛庵は、手を洗いながらそう言って肩を竦めた。
その横で、あらためて、軟膏を塗った大きな湿布を頬に貼られた進之丞に、葉が泣きそうな顔でしがみついている。
さすがに大名の娘だけあって、葉は目の前で人が死んでも泣き喚いて取り乱すようなことはせず、襲われたのは自分なのにむしろ進之丞を気遣っていた。

 「大丈夫よ、浅く斬られただけじゃ。唾つけといたら治るのに、先生が大げさなだけよ」
 「ほな、剥がそか」
進之丞は葉を安心させようとして言ったが、弘斎に湿布を剥がされそうになって慌てた。
 「紅寅……いいえ、進之丞?」
 「えっ」
 「あの者、織部と言いましたか。そなたを進之丞と呼びましたね」
 「あー……」
あの騒ぎの中で葉が思いのほか冷静であったことに驚きつつ、思わずその名を呼んでしまったことを進之丞は後悔した。
 「それが、本当の名前なのですか」
 「どっちでも、姫様のお好きな方で」
進之丞は誤魔化すように笑って見せたが、葉は引かなかった。
 「そなた、火消と言ったけど本当はどこかの家中の者でしょう。言葉遣いからしてそうじゃないかと思ったけど、火消と侍が名を呼び合うなんておかしいもの」
 「……!いや、ホンマに今は火消で、」
 「なら、やっぱり元は武家の者なのね」
 「…………」
 「黙って私の懐剣を見ておいて、自分のことは隠すなんてずるい」
 「……すいません」
進之丞は思わずそんな風に謝って、ちらりと葉を見た。
葉は妙にわくわくとした顔で、進之丞の答えを待っている。

 「内緒に、してくれるか」
 「もしかして、何か悪いことをして国を追われたのですか」
 「いや、そうじゃあない。でも俺はもう藩を離れた身じゃけぇ、みだりに旧藩のことを口にするのは恐れ多いけん……」
 「なら、内緒にする。葉にだけ教えて」
葉はそう言うと、小指を立てて進之丞へ突き出した。
そんな約束の儀式がひどく懐かしくて、進之丞は微笑ましい気持ちでその小さく細い指に自分の小指を絡めた。

 「嘘ついたら針千本、のーます。はい、どうぞ」
促されて、進之丞は葉の耳元へこそりと囁いた。
 「芸州広島、浅田家じゃ」
 「やっぱり」
 「内緒やぞ」
 「今約束したもの。そうしたら、織部も?」
 「うん」
 「織部も、一緒に国を出たのですか」
 「いや、織部は今も歴とした藩士じゃ。ほいでな、織部のことも内緒やぞ」
 「なんで?」
 「今日のことは二人だけの秘密って言うたじゃろ。俺のことも、織部のことも、内緒じゃ」
 「分かりました。じゃあ、織部も此処に呼んで下さい」
 「えっ?いや、織部はもう帰ったけん……」
葉は、進之丞の本名を知る織部に興味を持ったのかしきりに会いたがった。
進之丞がほとほと困り果てていると、障子が開いてよねが入ってきた。

 「あの、紅寅さん。世良様がこれを」
よねが差し出したのは、織部の脇差だった。
刀など持ちなれない上に刃傷騒ぎのあった後で、よねは触るのも恐ろしいという顔をしていた。
 「ああ、ごめんなおよねちゃん」
進之丞は織部が素直に帰ってくれたことに安堵しつつ、それを置いて行った織部の信頼と心遣いに胸を熱くした。