お前は姫様の側に居ろと言って、紀州藩邸への使いは弘斎が引き受けてくれた。
葉はやっと進之丞とお喋りが出来ると喜んだが、熱も下がりきっていないところへやはり精神的に動揺したのか、また少し具合を悪くした。
進之丞は葉に薬を飲ませて寝かしつけると、包帯を巻いていない方の手を握り締め枕元に座り込んだ。

ふと、その手の火傷のことが気に掛かった。
この傷を負わせた女中たみは、紀州の者ではなく大坂で雇った者だと言った。
それを聞いたとき違和感を感じたが、きぬの一件でそれはじわじわと疑惑に変わった。

紀州藩が大坂藩邸に余所者を雇い入れているとしたら、刺客が潜り込むのも容易い。
もしかしたら、たみもきぬも同じ一味では無かったのか。
刺客を使ったのが紀州藩の内外どちらの者かは分からないが、いずれにしても政治的な思惑が絡んでいるように思えてならない。

──などと、ぐるぐると沈思しているところへ、村田大膳が今朝方より更に慌ててやってきた。

 「べ、紅寅、姫君様は」
 「しっ、姫様にお怪我はございません。少々お熱を出されましたが今はこの通り休まれています、ご安心を」
進之丞は村田を窘めると、葉の側を離れたくないから話はここで、と断りまずはきぬの一件を詳細に話した。
勿論、助けに入ってくれた侍のことは上手く伏せての上だ。

 「まさかあの者がそのような……身元は確かと聞いたのに」
 「村田様、姫様のこの手の火傷、ご存知ですか」
 「それは先日、女中が茶をこぼしたものと聞いた」
 「たみと言う娘でしたな。こちらで雇い入れた者と伺いましたが、もしかしてあのきぬと言う女もそうではありませんか」
 「姫様ご滞在にあたり急遽女手を集めたのだが……みな身元は確かと聞いている」
平素、藩邸内に居る女は勤番藩士の家族くらいのものだから、こまごまとした身の回りの世話をする手が足りず急ぎ雇い入れたのであろう。
村田は、身元は確かな筈と己に言い聞かせるように繰り返して言った。
 「身元なんて金でいくらでも誤魔化せますよ。それに相手は歯の中に毒物を仕込んでいた、玄人です」
進之丞は、世間知らずで人の好さそうな大藩の用人へ、言い含めるように言った。

 「何事があるのか存じませんが、姫様を傷つけようとする者が入り込んでいるのは確かでしょう。多少ご不便でも、余所者には暇を与えられた方がよろしいかと存じます」
 「……相分かった。ご注進、痛み入る」
そして村田は自ら葉を、裏に待たせていた空駕籠まで運んだ。
今度は屈強そうな侍が五人ほど、駕籠に付いてきている。
葉は薬と熱の所為か、うっすら目を開けて一度進之丞を見ただけで、再び眠りに落ちたまま駕籠に乗せられた。

 「此度は大層世話を掛けた。姫様を助けてくれたこと、心から礼を申す。これは治療代じゃ、納めてくれ」
村田は弘斎に治療費と部屋の修繕費を払った後で、進之丞にも金を手渡そうとしたが、進之丞はそれを断った。
 「火消として人助けをしただけです。それに傷も大したことはありませんから」
 「さ、左様か……」
 「決して他言は致しませぬゆえ、心配はご無用です。姫様のご息災を、お祈り申し上げます」
そう述べて深々と頭を下げた進之丞と、そして診療所の者たちに村田は何度も白髪頭を下げた。
そして一行は乾いた風の中を、眠る姫を乗せた駕籠を囲むようにして紀州屋敷へ帰って行った。


 「ほうか、かぐや姫は月に帰ってしまわれたか」
織部が脇差を受け取りながらそんなことを言ったので、進之丞は少し驚いた顔をした。

 「……なんね」
 「いや、お前がそがん洒落たことを言うとは、吃驚じゃ」
 「お前が、あの姫君をかぐや姫になぞらえておったんじゃろうが」
 「俺は別に、ただ話をしてやろうと思いついただけで」
 「嘘つけ。お前こそ、女の子に物語をして聞かせようなんて柄かよ」
 「…………」
 「も少し、時間が許せば良かったのにな。まあ、あがぁ物騒なことがあったけぇ、しゃあない」
織部はどこか慰めるように言うと、いきなり進之丞を抱きしめた。

 「ちょっ、なに、織部……」
 「一緒に月へ行きたかったか?」
 「!」
唖然とした進之丞に、織部はいつもの、少し困ったような顔で笑いかけた。
 「俺を置いて、どこかへ行ったりするなよ」
 「……馬鹿なことを」
進之丞は呟くと、ふと心を吹き抜けた寂しさを埋めるように、織部の胸に顔をすり寄せた。



西町奉行所同心、石黒改め白倉多聞が進之丞を寅屋に訪ねて来たのは、それから五日後のことだった。
ちょっと同道して欲しいと言われて、また火消の若い衆がお上にご厄介でも掛けたのかと思っていたら、奉行所の奥に通された。
多聞がいつもより神妙なのもあって、これは大事かと訊ねたが多聞は曖昧に言葉を濁してそそくさと出て行ってしまった。
怪訝に思いながらも、まもなく分かるかと通された部屋で待っていると、やってきたのは西町奉行櫻井直清だった。
さすがに、進之丞は慌てて平伏した。

 「こ、これは櫻井様……」
 「紅寅、お前はつくづく面白ェ縁を持ってる男だな」
うろたえる進之丞を見て、櫻井は笑いながら伝法な口調で言って腰を下ろした。
櫻井がこういう口の利き方をするのは私的に織部の道場へ来るときだけだから、御用の向きではないだろうと進之丞は内心胸を撫で下ろした。
 「はあ。あの、一体何のことやら」
 「紀州の姫君に随分懐かれたそうじゃあねえか」
 「……!」
進之丞の驚く顔を、櫻井はにやにやと眺めている。
そしてその顔がさあっと青ざめたのを見て、言葉を続けた。
 「姫君がどうしてももう一度お前に会いたいと仰せだそうでな、なんでも飯を食わねえらしい」
 「なんですって?」
 「それでお守り役殿がほとほと困り果てて、まずは俺んとこにお前の身元を照会してきたって訳だ」

恩人とは言え、さすがにあのような騒ぎがあったあとで素性も碌に知れぬ男を藩邸に入れるのは、村田大膳も気がかりだったのだろう。
進之丞が町火消と聞いて、奉行所を通じ北町惣会所へ身元照会の依頼があったのだが幸いにも自ら見知った者であったので、じかに呼んだのだと櫻井は言った。

 「瓦町の、弘斎と言ったか。その医者を連れて、紀州様のお屋敷へ姫君のお守り……おっと、ご機嫌伺いに行って来いよ。なにしろ飯も喰わねえで塞いでるって話だから、これでは出立できんとお困りのようだったぞ」
 「お話は分かりましたが、」
 「なんだ。さすがのお前も紀州藩とあっては敷居が高いか」
 「いや、まあ、それもありますけど」
進之丞は少し躊躇ったあとで、思い切って訊いてみた。
 「あの、今ご出立と申されましたが、櫻井様は姫君が何故、何処へ向かわれるのか、ご存知ですか」
 「それは聞いておらんな」
 「ほうですか……」
進之丞はこれ以上の話は無用と思い切ると、畳に手をついて頭を下げた。
 「では手前は一度寅屋に戻り、それから弘斎先生を伴ってお屋敷に参ります」
 「いや、それだと時間を食うだろう。寅屋の方には俺から使いを出すから、お前はこの足で瓦町へ行け」
この格好で行けというのかと一瞬思ったが、羽織袴を着て行ったところでどうせ似合わないと言われるか、と苦笑交じりに思い直し、進之丞は言われたとおり奉行所を出てそのまま瓦町の診療所へ向かった。


弘斎は進之丞を見るなり、姫様の風邪がうつったかと軽口を叩いたが、葉が食事を取らず回復が遅いという話を聞くとすぐに薬籠を用意して出て来た。
紀州藩邸へ行くのに意外にも落ち着いている弘斎を見て、さすが病人が待っているとなると身分など構わないんだなと進之丞は感心して言った。
そんな進之丞に、弘斎は片頬を持ち上げ端正な笑みを見せた。

 「急病人とかで中之島に呼ばれるんは別に珍しいことやないさかい。それに人の身体ゆうのは、お武家も長屋の貧乏人もみな同じやからな」
 「はは、そないなもんか」
いつだったか、脱いだらやることは皆同じと、織部にそう言ったことがあった。
自分とは全く別の視点ではあるが、医師である弘斎も人を皆同じと言ったことが、進之丞にはどこか可笑しかった。


紀州藩邸に着くと、先日と同じ門番がすぐに村田に取り次いでくれた。
村田は相変わらず葉に振り回されているのか、やはり少し疲れた様子で、それでも進之丞と弘斎を丁重に迎えてくれた。

進之丞の進言を取り入れたものか、広く豪奢な屋敷の中は規模に比べて人が少なく感じられる。
其処此処に見える葵御紋に内心恐れ入りながら奥へ通ると、ぱたぱたと軽い足音と共に葉が飛んで来た。

 「──紅寅、先生!」
 「なんですか姫様、お行儀の悪い」
乳母に叱られ肩を竦めた葉を見ながら、自分もまた葉に再び逢えて胸が躍っていることに、進之丞は小さく苦笑した。
 「姫様、お招きにより参上仕ったぞ」
そう言ってやると、葉は一層子供じみた顔で嬉しそうに頷いた。
 「さあさあ、まずは診察や」
弘斎は未だ包帯を巻いている葉の右手を取って、どこかほっとしたような顔をした村田に続いた。

葉は進之丞に逢いたいとごねるあまりに食事を摂らなかっただけで、体調不良による食欲不振ではなかった。
進之丞と弘斎に飯を食えと言われると素直に膳を平らげて、皆を苦笑いさせた。

 「姫様、飯は食わにゃいけんよ。治るもんも治らんじゃなあんか」
進之丞が言うと、葉は平らげてしまった膳を前に途端に神妙な顔をした。
 「だって、元気になってしまったら、出立しなくてはならないから……」
何故、と聞こうとして、村田の厳しい視線を感じた進之丞は咄嗟にそれを飲み込んだ。
 「それァわがままと言うもんじゃ」
 「私、およねの粥がもう一度食べたかったの」
 「この膳もおよねちゃんの粥もおんなじよ。お屋敷の人たちが、姫様の風邪が治るようにと心を込めて作られたんじゃ」
 「…………」
 「見てみ、村田様も乳母殿もお疲れのご様子。俺らかて、姫様が心配で取るものも取りあえず飛んで来たんじゃけぇ」
それでこの格好じゃ、と進之丞は寅屋の半纏を引っ張りながら笑って見せた。
葉は言い含めるような進之丞の言葉を神妙に聞いていたが、ふと膳を退けると、村田ときよに向かって居住まいを正した。

 「爺、きよ、心配掛けてごめんなさい。紅寅と先生も、ごめんなさい。……来てくださって、ありがとう」
 「姫君様……」
素直に謝った葉に、村田ときよは心底ほっとした顔で涙ぐんだ。
進之丞と弘斎は、顔を見合わせて小さく笑い合った。

それから進之丞は、三郷の町の歳時記や火消の話、これまでにあった捕物のことなどを面白おかしく話して聞かせた。
弘斎の合いの手がまた絶妙で、村田やきよも笑い声を上げて話に聞き入った。
あっという間に時は過ぎて、三郷の空は夕焼けに紅く染まり、夕餉の声が掛かった。
それを潮に、進之丞と弘斎は紀州藩邸を辞することにした。
葉はひどく寂しそうな顔をしたが、これ以上居つけば寂しくなるのは進之丞も弘斎も同じだった。

 「紅寅、先生……」
 「しっ、」
寂しげな顔で葉が言いかけたのを、進之丞は咄嗟に手を伸ばして制した。
その耳に、遠く半鐘の音が聞こえる。

 「紅寅?」
 「火事じゃ、様子を見てくる」
弘斎に答えて、進之丞は半纏を手に屋敷の外へ出た。
高い塀の向こうにある西の空はもう藍色を帯びてきていて、煙は見えない。
しかし半鐘1の音を聞く限り、火元は天満方面ではなく雨寅の担当する船場地区と思われた。
そう思ったときには既に、進之丞は紀州屋敷を飛び出していた。
POSTSCRIPT
[1] 半鐘(はんしょう):

火事を報せる半鐘の音は、火元が遠いほど間隔を開けて叩く。
人々はそれによって火元の方向や近さを判断していた。