寅屋は今で言う工務店のようなもので、家屋の普請はもちろん、橋や堤防、道などの公共物の土木建築作業も請け負っている。
公共工事の場合はその地区の惣会所から依頼が来て、火消人足を兼ねている鳶の連中などを小頭以上が指揮して作業にあたる。
そのほか、火消は皆基本的に腕っ節が強いから、管轄地区の大店の冠婚葬祭など人手の要る行事や力作業を手伝いに行ったりもする。

生来手先の不器用な進之丞は大工仕事をしないというよりは『出来ない』ので、主に公共工事の仕切りや商家の手伝い、果ては用心棒的なことなどを受け持っている。
そういったお声掛かりの無いときは昼間こうして外にいても構わないのだが、しかし火事となれば何を置いても駆けつけねばならない。

───それは、大工仕事も出来ないのに寅屋の一員で居る進之丞が、固く心に誓っていることだった。

その進之丞が東横堀川に架かる今橋を渡って武家屋敷街から三郷の町に戻ると、半鐘の音が大きくなった。
そこから北船場の町中に向かって走っていくと、火事を見に行くと思しき野次馬がちらほら見えてくる。
進之丞は、一人の職人風の男を掴まえて聞いた。

 「おい、火元は何処ね」
 「あっ、あんた、紅寅…」
この辺りに住む人間は大抵、進之丞の風体を知っている。
職人風の男は驚いたように目を瞠って、火元は北船場の西、呉服町の町屋らしいと言った。
 「おおきに。ところでお前さん、船場のモンなら呑気に火事見物しとる場合と違うぞ。風が出てきとるけん、家帰って荷物まとめとけ」
進之丞は男に言うなり、風を巻いて更に西へ走った。
呉服町は織部の家のある京町橋に近く、あの辺りは商家よりも町屋が多く建物が密集している。
男に言ったように少し風が吹いてきていて、空気も乾燥しているから出遅れると大変なことになる。

進之丞の属する北組の管轄は北・西船場で、雨印こと雨寅が北船場に、滝印が西船場にあった。
各組の頭は、火元と風向き、予想される火事の規模によって風上・風下のどちらに廻るか、住人をどの方面へ避難誘導するかなどを判断する。

風は、今のところ西へ向かう進之丞の背を押してきている。
呉服町の西にはすぐ西横堀川があるから、風向きが変わらなければそこで火を食い止められるだろう。
以前、追い迫って来る火から逃れようとして川に人が殺到し、溺死者が大勢出たことがあった。
だから恐らく避難経路は川方面ではなく、北船場を南東方面に取るはずだと思った。そちら方面には西町奉行所もある。

進之丞は、ここを真っ直ぐ南下すれば寅屋に出るという堺筋で一度足を止めた。
自分ももう数年この町で火消を務めているから、誠の考えは大体読める。
果たして、堺筋を北上してくる雨の纏が見えた。

 「───紅寅さん!」
 「間に合うて良かった。呉服町じゃそうじゃの」
 「住人は西の奉行所方面に。飯時やけ、早うせんと他からも火が出る」
足を止めずに言った誠に進之丞は併走しながら頷き、頭が言わんとしたことを読み取った。
家から飛び出してくる人々に奉行所方面へ逃げるよう指示しながら、火を使ってた者は水ぶっかけて出て行けと、大声で怒鳴りながら走る。
そうすると、他の皆も進之丞に倣って声を上げた。

 「紅寅さん、これ」
後ろから追いついてきた右近が、紅い襷に黒色の股引と足袋を、刺し子半纏にくるんでひとまとめしたのを渡した。

町火消の基本装束は、腹掛けに防火用の刺し子半纏、股引、足袋である。
頭部は、火事場に出れば人々の注目が集まるため頭巾ではなく鉢巻を締める者の方が多く、臥煙連中の中には見事な彫り物を入れて肌を見せる者も居る。
雨寅は壱番組から参番組まで三班に分かれていて、背に雨の字の入った半纏の袖にそれぞれの所属を示す線が壱番なら一本、弐番なら二本…というように染め抜かれており、更に頭の誠と小頭の二人は半纏の色が黒、他は紺地と、慌しい火事場の中でも所属の見分けがつくように工夫されていた。

普段の進之丞は肌を隠すために特注で作った、背中側まで深く包む腹掛けと手甲をつけ、その名と同じ紅の襷を鉢巻や襷掛けにして使っている。
しかし今日のところは、装束が足りないのは仕方が無い。

 「すまん、すぐ追いつく」
進之丞は右近に礼を言ってそれを受け取ると、走る雨寅一行から少し外れ、股引と足袋を履いてから着物の裾をからげた。
そして、背に雨の字の入った黒の刺し子半纏を羽織ると、額に紅い襷を巻き付けながら再び駆け出した。

その日の火消作業は風が荒れたこともあって手間取ったが、天満から波印が応援に来て、被害を呉服町から北西の一角で何とか食い止めた。
呉服町を囲んで南の京町橋、東の商家一帯はぎりぎり無事だったが、西横堀川に架かる呉服橋と筋違橋が焼けた。
町屋が多かったこともあって焼け出された住民が多く出て、火消たちは逃げおおせた人々を寺に誘導したりするなど遅くまで走り回った。


 「…こら、明日から大変やな」
火元であった呉服町の南にある西本願寺境内でようやく一息ついた辰五郎が呟いたときは、もう夜中であった。
 「寒うなってきとるけん、年寄りや子供が心配じゃな…」
避難所となった境内のあちこちで寒さに震え身を寄せ合う人々を見て、進之丞はため息をついた。
明日は避難者への炊き出しやら橋の修復工事などで、朝から忙しくなるだろう。

そしてそこで、葉の事を思い出した。
紀州藩邸を出てきてそれきりになってしまったが、かと言ってこんな時間にこんな姿で訪れるわけにもいかない。
明日からは昼間出歩く暇など無いだろうし、もうこのまま会えないのかと思ったら、急に寂しくなってきた。

ふと顔を上げると、夜空には欠けた月が浮かんでいた。
それを見て、姫様はちゃんと夕飯を食っただろうかと、そんなことを思った自分に思わず苦く笑う。
そうしたら急に、堪らなく織部の顔を見たくなった。

 「…誠、俺ちょっと京町橋の家見て来るわ」
 「ああ、したらもう今日は上がってください。その代わり明日は早めに…」
 「うん。ここの様子見てから店行くわ」
頷いて襷を外した進之丞を見るともなしに見つつ、誠が思い出したように言った。
 「そういや紅寅さん、こないだ助けたお嬢さんを見舞ってたそうですね」
 「え?」
 「今日、奉行所から使いが来て…」
 「…ああ、」
そういえば櫻井が使いを出してくれると言っていたのを、進之丞は今更ながら思い出した。

火消仕事の後は、火が出る前のことがまるで遠い昔のように思えることがある。
───それはきっと、ここで着の身着のまま焼け出された人たちもそうだろうと、進之丞は再びため息をついた。

 「お奉行所…てことは、お侍の娘さんやったんか」
 「ああ。一応火消の紅寅と名乗ったんじゃけどな。あちらさんは不信じゃったようで、西町に照会が行ったんじゃと」
 「はは、あんたぱっと見、町人なんか何なんか分かれへんもんな」
 「半鐘聞いて飛び出して来たけん、火消じゃゆうのは信じてもらえたと思うけどな」
辰五郎の言うのに、進之丞は下ろした着物の裾をはたきつつ苦笑して答えた。

 「したら、すまんが先に帰るわな。お疲れさん」
進之丞はひらりと手を振ると、本願寺を出て京町橋へ向かった。
二丁ほど北に行けば、もう京町橋である。
ぼんやりと欠けた月を見上げつつ西横堀川に沿って歩いていると、正面から駆けてくる人があった。
咄嗟に足を止めて身構えたものの、進之丞はすぐにその人影に向かって足を速めた。

 「───帰って来てたんか」
火事は織部の帰路であったから恐らく今日は藩邸に泊まって来るだろうと思っていたのだが、自分の身を案じて帰ってきたのであろう織部に、進之丞の心臓が甘く鳴いた。

 「火が鎮まったんを見て橋を渡ったら、ちょうど多聞殿が出張っておってな。雨寅の皆が西本願寺に居ると聞いて、いま行こうと思うてたとこじゃった」
 「うん、もう皆も店に帰ったよ。…家は、大丈夫じゃった?」
 「お陰で、京町橋までは火が来んかったよ。お疲れさんじゃったな」
織部はそう言って、人気が無いのをいいことに進之丞の肩を抱いた。


火事の後は気が昂ぶっている所為なのか、いつも無性に織部が欲しくなる。
この夜も進之丞は、明日は早いと分かっていながら織部を求めた。

 「…これ、どがぁした?」

不意に、織部の手が止まった。
怪訝そうに見つめた視線を追って、進之丞は初めて自分の腕に小さな火傷を負っていたことに気づいた。

 「ああ…今日は外におる時に火が出たけん、手甲着けてんかったから…」
 「阿呆、すぐ手当てせんと痕になるじゃぁないか」
織部は眉を顰めて身体を起すと、弘斎に頼んで作ってもらった火傷用の常備薬を取って、進之丞の腕に塗り始めた。
その上から油紙を巻いて、更に包帯を巻く。
甲斐甲斐しく手当てしてくれた織部の腕を、進之丞はもどかしげに引き寄せた。

 「…大げさなんよ、お前は」
 「進之丞、」
 「でも、ありがとな。もう大丈夫じゃけぇ、…早う抱いて」
 「……」
腕の中から誘うような上目遣いで見つめられて、織部は堪らずその身体を押し倒した。
白い肌が障子越しの月明かりに浮かんで、艶かしく動く。

 「もっと───織部…、」
甘え声で強請る進之丞を、織部はいつもより激しく抱いた。
火事の後は進之丞が普段より積極的になるのを知っているから、自分もそれに惑溺する。
強く絡んでくる腕と脚に捕えられながら、その身体の深い場所へ、誘い込まれるようにして溺れていく。
 「ああ、ん───は、ぁっ…」
抑えきれない嬌声と共に、白い身体が撓る。
つい先刻まで勇敢に猛火へ挑んでいた筈のこの身のどこに、こんな妖しく淫らな色を潜ませているのかと思う。
そしてそれは自分だけに見えるものなのだと思うと、震えるような優越感と強い情愛の念が織部の身を貫いた。

 「もう、どないかなりそうじゃ…」
この想いはどうしたら伝わるのかと考えたが、出てきた言葉はひどく不器用なものだった。
しかし進之丞は、熱い吐息と共に囁かれたその言葉に、潤んだ目を眩しそうに細めた。

 「織部、俺を、お前でいっぱいにして───お前だけで、…埋めて」

進之丞は縋るように幾度も織部を求め、うわごとのようにその名を呼んだ。
いつにも増して激しく悶える進之丞の白い身体を、そしてそれを抱きとめる織部の精悍な肉体を、月明かりは静かに照らしていた。