昨夜あまり寝ていないしどうせ起きないだろうと思いつつ進之丞がまだ眠りの中にいる織部に声を掛けると、織部は意外にもすんなり目を覚ました。
驚く進之丞に、それでもまだやや眠たげな目で、織部は笑って見せた。

 「西本願寺、寄るんじゃろ。俺も付き合うよ」
織部は寝覚めが悪く、身体を起こすまでに時間がかかるが起きてしまえば早い。
よっこいしょ、と年寄り臭く身体を起こすと、そこからはてきぱきと布団を畳み、寝間着を着替えた。
それから台所でありったけの炭を袋に詰め、火傷や切り傷の薬などを風呂敷に包むと、二人揃って家を出た。

暁闇にはまだ消え残った星が瞬いていて、今日もからりと晴れそうな予感がする。
少しでも雨が降ってくれるといいのにと内心舌打ちしながら、進之丞は足下に舞う土埃に眉を顰めた。

西本願寺は庫裏もお堂も被災者でいっぱいで、住職は炭と薬の差し入れを喜んでくれた。
差し入れを運び込んだ織部を外で待っていると、布団を積んだ二台の大八車と、侍と思しき人影が境内に入ってきた。
怪訝に思って声を掛けてみると、紀州藩の者だと言う。

 「紀州様の…?」
 「そなた、火消の…紅寅と申したか。昨日、屋敷に来ておったな」
少しずんぐりとした侍が、人懐こい笑顔で進之丞に言った。
 「それがしは紀州大坂屋敷の黒江康二郎(くろえ こうじろう)だ。そなたが昨日屋敷に来ていたのは知っておったんだがな、挨拶をしそびれてしまった」
 「お…、恐れ入ります」
恐縮した進之丞がちらりと大八車の荷を見遣ったのに気づいて、黒江はああ、と言って少し声を潜めた。

 「昨日そなたが屋敷を出て行ったあと、姫様が大層ご心配なさったので、人を見にやったんだ。それで火事の様子を聞いて被災した者達に何かしてやれないものかと仰せになったので、この寒さだからと思い布団を持ってきたという訳だ」
 「───左様にございましたか。このところ夜は冷え込んで参りましたから、皆助かりましょう」
進之丞は葉の心遣いと、こんな早朝に足を運んでくれた黒江に感激して言った。
 「黒江様、朝早くから本当に有り難うございました。後は手前が引き受けますゆえ…」
 「いや、色々と人手が要ることだろう。俺は力だけが取り柄でな、手伝って来いと言われているから、遠慮は無用だ」
御三家の家臣ときて、しかも見た目がやや厳つい黒江は一見威圧的に思えたが、意外なほど気さくに笑いながら腕をまくった。
そしてその腕の太さに、進之丞は思わず目を瞠った。

年の頃は自分より二つ三つ下くらいだろうか。
驕りの無い物言いと人懐こい笑顔はどこか織部に似ている…と思ったとき、当の織部がお堂から出てきた。
織部に気づいた黒江は何か考え事をするような顔で織部の目の上の傷を眺め、そしてはっと手を打った。

 「もしや、江戸修武館の世良先生ではございませぬか」
 「えっ…」
 「そのお顔の傷、覚えております」
黒江はそう言ってから、織部と進之丞が揃って顔を顰めたのに気づいて慌てて頭を下げた。

 「あっ…不躾なことを、申し訳ございません」
黒江はこちらが気の毒に思えるほどに大きな身体を小さくして、顔中を汗にして幾度も頭を下げた。
あまりに恐縮したその様子に、織部と進之丞は思わず顔を見合わせて苦笑してしまった。
 「…これァ、悪いことは出来んなあ」
織部がそう言って笑ったので、黒江はやっとほっとしたように太い眉を下げた。

 「大変失礼を致しました…それがし、紀州藩大坂藩邸勤番、黒江康二郎と申します。以前公用で江戸へ参った折に、当時師範代を勤めておられた世良先生に一度稽古を付けて頂いたことが…」
 「それがしが、直接貴殿と立ち合いを?」
 「はい。当藩江戸屋敷の青野という者が修武館に通っておりまして、その者に見学を勧められて…」
黒江はそう言って、再び袖をまくって太い腕を出して見せた。
 「!ああ、」
織部は青野という門弟の名と、その太く逞しい腕に覚えがあったようだった。

 「思い出しましたぞ。貴殿、それがしを投げようとしましたな」
 「ええっ?」
進之丞は驚き、思い出し笑いをする織部とまたも恐縮した黒江を交互に見た。

聞けば黒江は柔術が得意とかで、なるほど腕の太さも体格も立派であったが、しかし剣術の方は今ひとつだった。
そこで同藩の青野という者が、うちの師範代は教えるのが上手だからと言って修武館へ連れて行ったのだが、黒江は織部に竹刀を飛ばされて反射的に掴みかかろうとしたのだという。

 「…そこを、脇腹にすさまじい打撃を受けて、吹っ飛ばされました」
黒江は、あとで青野にしこたま叱られたと言って顔を赤くした。
 「左様でしたか。遅れましたが、いかにも世良織部に御座る。それがしも今は貴殿と同じく、大坂蔵屋敷勤番でしてな」
織部は黒江に負けぬ笑顔と丁寧さで言うと、ぺこりと一礼した。
そして黒江も慌てて頭を下げ、進之丞はそんな人の好い二人の侍を眺めてこっそりと笑った。

 「しかし、まさかかようなところでお目にかかるとは…」
と言いかけて、黒江はふと進之丞に視線を戻した。

 「紅寅、そなた世良先生と知り合いなのか?」
 「あ、手前はその、世良先生の道場に通っておりまして…」
 「ほお、世良先生は大坂で道場をお持ちなのか」
しどろもどろになった進之丞に構わず、黒江は感心したように言った。
 「はい、それで先生も、焼け出された者たちに差し入れを持ってきてくださった次第で…」
自分を先生と呼ぶ進之丞の言葉遣いに、織部は面映ゆそうな顔で苦笑した。

 「先生。黒江様が、火事があったと聞いて布団をこがぁに…」
進之丞に言われて、織部は大八車に山と積まれた布団を見遣った。
 「おお、こりゃァ皆大助かりじゃろう。それにしても、結構な量じゃな」
 「先日ちょうど布団を新調したところで、まだ長屋の隅に積んであったのです。使い古しですが、少しでも役に立てばと…」
黒江は少し照れくさそうに、それでも小さく胸を張って言った。
素直な男だ、と織部は目を細め、親しげにその肩を叩いた。
 「黒江殿、ここで再会したのも何かのご縁じゃ。それがしの道場…といっても小さなものじゃが、ここからすぐ北の京町橋の所じゃけぇ、良ければ是非一度お越しになってつかあさい」
 「は、はい。是非とも伺わせて頂きます」
 「但し、投げは無しですぞ」
珍しくそんな軽口を叩いて、織部は笑いを引っ込めると今度は進之丞の背に手を添えた。

 「じゃあ、俺は行くけん。…しばらく忙しいなると思うが、身体、気をつけてな」
 「…はい」
言葉はいつもと少し違ったが、交わした視線には、昨夜の激しい愛撫を思い出させる情がこもっていた。
進之丞は密かに身体を震わせて、境内を出て行く織部の背を見送った。


それから進之丞は寅屋に行って、誠たちと惣会所へ出向いて焼けた橋の修復工事や町屋の再建などについて話し合い、今日のところはまず手分けして各地の避難所の炊き出しの手伝いをしようということになった。
雨寅弐番組の巳之吉と丑松、それから鳶の連中と共に再び西本願寺へ戻ったのは昼過ぎのことだったが、そこにまだ黒江が居たことに進之丞は驚いた。
子供を両腕と背中へ、全部で三人も乗せている侍を見て、丑松が目を丸くした。

 「うひゃあ、武蔵坊弁慶のようなお侍さんやなあ」
丑松の例えが言い得て妙で、進之丞は思わず噴き出してしまった。
 「ありゃァ紀州様のご家中の黒江様と仰る御方じゃ。御屋敷に古い布団があったゆうてな、朝早うに持ってきてくだすったんよ」
 「ええっ、紀州様の…?」
驚く丑松達を後目に、進之丞はいかにも力自慢らしいやり方で子供達と遊んでやっている黒江に駆け寄った。

 「───黒江様、」
 「おお、紅寅」
 「もしかして、あれからずっと…?」
 「いや、一度戻ったのだがな。この子供らと遊ぶ約束をさせられてしまって、またやって来たんだ」
そう言って照れたように笑った黒江を見て、いい男なのだなと進之丞はしみじみ思った。

 「お前たち、飴玉を持ってきたぞ。ほれ、あの兄ちゃんが持っとるけん」
進之丞は黒江にしがみつく子供たちに言って、巳之吉の方を指さした。
飴玉と聞いた子供たちは黒江の腕や背中から飛び降りると、地面に着くなりわあっと駆け出そうとした。
 「あ、こら。お侍さんに礼を言うてからじゃ」
進之丞が慌てて子供たちを諌めると、子供たちは口々にありがとうと言ってまた走って行った。
黒江はその元気な後姿を微笑んで見つめたあとで、進之丞を振り返って言った。

 「紅寅、ここで会えて良かった。…ちと話がある」

黒江は庫裏の裏へ進之丞を伴うと、階段に腰を下ろして進之丞にも座れと言った。
 「黒江様、お話とは…」
 「ああ、葉姫様のことなんだがな」
 「あ…昨日、出て行ってそのままになってしまいましたけん、ご気分を悪くされていたのではないですか」
さっと眉を顰めた進之丞に、黒江はいやいやと笑って手を振った。
 「あの後ここで町の人々からおぬしの活躍を色々と聞いてな。先刻一度戻った折に、そのことなどをお話したら、大層ご機嫌麗しいご様子であった」
 「…そうでしたか」
 「それでな、実は…」
黒江はそこで言葉を慎重に選ぶ余り、しばし黙り込んだ。
 「…黒江様?」
 「あー…、おぬし今、火事の後で忙しいよなあ……?」
 「…?」
急にそんなことを言い出した黒江に進之丞が怪訝な顔をしたところで、境内の方で自分を呼ぶ声が聞こえた。

声の主は亀吉だった。
進之丞は黒江に一言断って腰を上げると、庫裏を回って境内へ出た。

 「亀、ここじゃ」
 「あ、居った」
やや息を弾ませている亀吉が、進之丞の姿を見てほっとした顔をした。
 「なんね、急用か?」
 「いま店の方に多聞の旦那が来て、紅寅さんに西町へ来て欲しいと…」
亀吉は手札はもらっていないが、時折多聞の手先を務めている。
その亀吉が帳場を外して多聞の用で駆けて来たということは、火付けの疑いが出たかと進之丞は顔を引き締めた。
それに気づいた亀吉が、あっという顔で手を振った。
 「あ、いや、昨日の火はただの不始末やったそうです。紅寅さんは西本願寺や言うたら、旦那はご自分で呼びに行く言わはったんやけど、お急ぎのようやったさけ俺の方が早い思うて」
 「なんでまた…」
急ぎ奉行所への呼び出しと聞いた進之丞は眉を顰めたが、事情を知らない亀吉はそんな進之丞を他所に境内を見回して訊いた。

 「あの、こちらにお侍さん、居てます?」
 「うん?」
 「いや、旦那が、ここに侍が居るはずやから、その人も一緒に奉行所にって」
 「……」
それで、また紀州絡みかと予測が付いた。
しかし何故黒江も…と思いつつ進之丞は亀吉を寅屋に戻し巳之吉に後を任せて、どこか落ち着きを無くしている黒江と共に西町奉行所へ向かった。