今日は奉行*役宅の方へ通された進之丞は、昨日のことで紀州藩から何か言ってきたのかと内心気が気ではなかった。
しかし黒江はそのようなことは言っていなかったし、一体何事かと思いながら襖の外に膝を揃えて名乗った。

 「御奉行様、紅寅です。お呼びと聞いて参りました」
 「ああ、度々すまないな。しかも火事の後で忙しいところを…入ってくれ」
言われて襖を開けると、目に飛び込んできたのは悪戯を見つかった子供のような顔をした櫻井直清だった。
 「…?」
思わず上座を見ると、そこには品の良い、役者のような優面の武家が座っている。
その途端、横に居た黒江があっと声を上げた。

 「よ、慶晴(よしはる)様…!」
 「へっ…?」
いきなり平伏した黒江と、きょとんとしている進之丞へ、慶晴様と呼ばれた武家は穏やかな笑みを向けた。
その手前に居る櫻井が、なんとも決まりの悪そうな顔で頭を掻いている。

 「紀州和歌山藩世子、慶晴様にあらせられる」
 「……!!」
進之丞はあまりのことに息を飲み、慌てて床に手を付き頭を下げた。
するとその頭越しに、穏やかながら凛とした声が聞こえた。
 「両名とも、入るがよい」
 「は…」
進之丞は黒江が直るのを待ってから顔を上げて、腰を低くして部屋に入ると再び頭を垂れた。

 「その方、紅寅と申したか」
 「は…」
 「そう這い蹲られては話も出来ぬ。顔を上げてこちらへ参れ」
 「は、はい…」
進之丞は状況が理解出来ぬまま畳の上を這うようにして黒江の前へ出て、恐る恐る顔を上げた。
じっとこちらを見ている慶晴と目が合って、反射的に目を伏せる。
それでもなお見つめてくる慶晴の視線に、背を冷たい汗が流れた。

 「…ふむ。もう少し男前かと思っていたが、そうでもない」
 「!」
 「だが、色気のある男だな」
呆気に取られている進之丞を、慶晴はなおもじろじろと見ている。
すっかり居心地が悪くなって助けを求めるように櫻井へ視線を流したが、櫻井はやはり悪戯小僧のような顔をしているだけで何も言わない。
仕方なく、進之丞は自ら口を開いた。

 「お、恐れながら申し上げます、一体手前に、どのような御用で…」
 「そなた、元はどこの家中に居ったのだ?」
 「…!?」
いきなりな慶晴の問いに驚いた進之丞は、思わず櫻井に顔を向けた。
櫻井が俺じゃない、と片手を振るのを、慶晴は横目で見て小さく笑った。

 「直清も葉も、そなたのことを教えてくれぬのでな。直に聞こうと思って呼んだのだ」
 「…恐れながら、それは何ゆえにございましょうか」
 「そなた、町火消と聞いたが、大膳がどうもあれは元は侍ではないかと申すのでな。そこで葉に訊ねてみたが、約束だからなどと言って口を割らぬ」
 「……」
 「あの、人の好き嫌いの激しい娘が斯様に懐いたはどんな男かと思ってのう」
 「はあ…、」
 「あれは幼い頃から誰より私に一番懐いておったのだ。それが急に別の男の名を口にしたゆえ、きっと私より男前なのだろうと思ったのだがな」
 「……」
そう言ってつるりと撫でた、確かに自負して然るべき秀麗な面差しを見つつ、悪うございましたと進之丞は内心悪態をついた。
そんな進之丞の心の内を読んだかのように、慶晴は扇子でとんとん、と気を引くように床を叩いて言った。
 「だが色気がある、と言っただろう。あれは褒め言葉ぞ」
 「…それは、恐悦至極に存じ奉ります」
紀州のお世継ぎと聞いて最初こそ驚いたものの、数々の無遠慮な物言いに進之丞はすっかりふて腐れて、慇懃に言い放った。
それを聞いて慶晴は、櫻井の方を向いてかすかに笑い声を立てた。

 「直清、そなたの言うたとおりだな。面白い男だ」
 「で、ございましょう」
 「……」
なんだか弄ばれているような気になって、進之丞は不快に思う一方で、一見穏やかではあるがどうにも腹の底の見えないこの若殿にかすかな畏怖を覚えた。

 「紅寅、私はお前に興味を持ったぞ」
 「勿体無いお言葉にございます」
 「そう拗ねるでない。葉は年の離れたたった一人の妹ゆえ、私はあれが可愛くて仕方がないのだ。いわばやきもちだ、許せよ」
 「…はあ、」
 「それで、どこの家中だ。教えてくれぬか」
少し親しげな言葉遣いになった慶晴は、再びその問いを口にした。
下問ではなく教えてくれとまで言われて、答えないのは無礼にも思える。
が、のちに御三家紀州藩の当主となるこの若殿にそれを言って、後々芸州にどんな不利益があるかも知れない。

 「───恐れながら手前は既に旧藩を離れた身でございますれば、何卒ご容赦頂きとうございます」
 「義理堅い男だな。お前はもう藩士ではないのだから、お前が私や葉に無礼を働いたところで旧主へ文句を述べたりなどはせぬ。私がそのような無分別な男に見えるのか?」
自分の懸念をまたも見透かされて、進之丞は慌てて畳に伏せた。
 「いえっ、左様なことではございません。ただこれは、ひとえに手前のけじめにございますれば」
 「……葉や直清には言えて私には言えないか。大名の息子とはかくも不自由なものかな、なあ康二郎」
途端に慶晴は整った顔を哀しげに歪めて、憂いのあるため息をついた。
明らかに芝居がかった態度であったが、世子に呼びかけられた黒江はどう答えていいものやら真剣に戸惑った挙げ句、はたと膝を打った。

 「あ…もしや、芸州……」
 「!」
今朝方進之丞が織部と一緒に居たのを思い出して黒江が思わず口走り、進之丞が振り向いた。
その鋭い眼差しに黒江ははっとして手で口を塞ぎ、慶晴がその様子を見て笑った。

 「お前、嘘のつけぬ男のようだな。…そうか、安芸守殿のご家中であったか」
 「〜〜〜〜〜…」
 「心配せずとも良い。私は長徳殿とは同い年でな、長徳殿が江戸に居られたときには良く一緒に遊びに出たものだ」
 「えっ…」
長徳の名に反応した進之丞へ、慶晴は端正な顔に少しやんちゃな笑みを浮かべた。
それにうっかり見とれてしまって、大名の息子でなければさぞかし女にもてただろうと進之丞は思った。
 「ここだけの話だが、二人で吉原にも行ったのだぞ」
 「……とんでもないことにございます…」
進之丞は若殿二人のお忍び話を聞いて、織部が聞いたらさぞ驚くだろうと思いながら呆れたように呟いた。
そしてひとつため息をつくと、居住まいを正して手を仕えた。

 「お察しの通り、手前の父は芸州広島浅田家にお仕えしておりました。ただ手前は家を継ぐ前に国を離れましたゆえ…」
 「そうであったか。お前のような忠義者が居れば長徳殿も安心であったろうにな、勿体無いことだ」
慶晴はそう言って惜しんでくれたが、進之丞が何故国を離れたのか、そこを訊ねようとはしなかった。
そのことに、進之丞は少しだけ慶晴という若殿への印象をあらためた。
 「勿体ないお言葉にございます。ですが芸州には今も忠義の者がたくさん居りますゆえ、長房様や長徳様におかれましては何の御懸念もなかろうかと存じます」
 「おお、まさしく左様にございます。芸州には、江戸で名の聞こえた一刀流道場修武館の師範代までお勤めになった方が居られますし」
黒江が無邪気に言い放って、慶晴が身を乗り出した。
 「ほお」
 「黒江様」
進之丞は窘めるように鋭くその名を呼んだ。
黒江はまたも進之丞に睨まれて、しまったという顔でしゅんと肩を竦めた。

裏表がないというのは美徳ではあるが、武家の者としては黒江はあまりに無邪気過ぎる。
力だけが取り柄と言ったのは謙遜かと思ったが、あながち間違ってはいないようだと進之丞は嘆息した。

 「その者なら知っておるぞ。長徳殿がよう自慢しておられた。…俺がそいつに剣を教えたのだとな」
慶晴の言うのを聞いて、進之丞は思わず噴き出した。
織部と進之丞は長徳の御側衆として剣の稽古相手に選ばれたが、その頃の長徳は周囲にお強いお強いと言われて、いい気になっていた割には実力はさほどでもなかった。
それを、少年の頃から教え上手で、かつ長徳に対し無用な遠慮をしなかった織部が手ほどきをしたものである。

(これァ、織部が聞いたらひっくり返るじゃろうな…)
しかし長徳の見栄の張り方が、また長徳らしくて、進之丞は泣きたいような懐かしさと共に思わず笑顔になった。
その笑顔を、慶晴は目を細めて見つめていた。

 「紅寅、お前が自らの秘密を教えてくれたかわりに、私達兄妹が此処に居る訳を教えよう。…その上でお前に、一つ頼みがある」
 「は…」
進之丞はすかさず後ろへ下がって、再び平伏の形を取った。
 「実は、公儀から葉に縁談があってな」
 「……」
やはり、と進之丞は内心合点がいく思いで慶晴の言葉を神妙に聞いた。

大名家の縁談は、幕府の知らぬところで大名同士が結びつきを強めないために幕府が斡旋するのが慣例となっており、この度幕府が紀州の姫に持ちかけた縁談の相手は、同じ親藩の世子だと言う。
そこまで聞く分には良くある話だと思ったが、相手が二十二歳と聞いたとき進之丞はわずかに眉を顰めた。

 「葉はあれで十五になる。まだ子供っ気が抜けんゆえ、そうは見えぬと思うがの」
 「!」
またも進之丞の心の動きを悟った慶晴が、笑いながら言った。
すっかり気味が悪くなった進之丞は、表情を読まれないようにそろりと顔を伏せた。

 「それでまあ、その子供っ気がな、上州は寒くて雪も多いと聞いて、斯様な寒いところは嫌だと言いおってのう」
その言葉に、進之丞は下げかけた頭をはたと止めた。

 「上州…」
 「左様。相手は上州吉乃藩鷹司松平家世子、松平信成殿だ」
 「───!」

今日は良く驚かされた日であったが、中でも今が一番驚いた進之丞は最早声も出ず、慶晴の顔を呆然と見つめた。
進之丞の表情から悉くその心中を読んできた慶晴だったが、その驚きように初めて少し不思議そうな顔をした。
補足
[ 役宅:やくたく ]
奉行の自宅屋敷のことで、奉行の家族たちはここに住んでいる。奉行所敷地内にあり、いわばオフィスと自宅が隣接する形。