「こん、石頭が!もおええ、お前とこれ以上話しとっても埒が開かん」
 「どの口で言うとるんじゃ。お前こそ、そがん分からず屋じゃとは思わんかったぞ」
 「そらァお眼鏡が違うたようで残念でしたな。おあいにくさま」
進之丞は吐き捨てるように言うと、織部を残して部屋を出た。
足音も荒く下りて来た進之丞に、階下に居た右近はまるで何事もなかったかのように声を掛けた。
 「あ、進之丞さん。もう出ますか」
 「ああ」
 「お帰りは?」
 「今日は──いや、しばらく帰らん」
 「おや、家出ですか」
わざとらしく驚いて言った右近を、進之丞はぎろりと睨みつけた。
 「あの石頭がもうちっとでもやらかくなったら報せに来い」
進之丞はぶすりと言い捨てて、朝飯も、いつもの梅干し入り白湯も取らずに家を出て行った。

それからしばらくして、織部がやはり険しい顔で下りて来た。
進之丞の姿がないことにはとうに気づいているくせに何も言わず朝飯を食う主に、右近もまた何も言わなかった。
織部が口を開いたのは、さあ出勤しようと大小を腰に差してからのことだった。
 「進之丞は?」
 「ああ、家出しちゃいました」
 「家出じゃと?」
 「織部様の頭がやわらかくなったら報せろと」
 「…ハ。勝手にせえ」
織部は思いきり眉を顰めて言うと、行くぞ、と右近を促した。
右近はそれに頷きながら、やれやれと内心でため息をついた。

織部と進之丞の激しい言い合いは、珍しいがこれが初めてではない。
最初にその怒鳴り合いを聞いたときは全身に冷や汗をかきながら割って入ったものの、後で聞いてみればそんなことでと思うような些細なことが原因だった。
大体この二人が本気ですれ違う時は互いに口が重くなり、その深刻な空気にはとても割って入ることなど出来ない。
いい大人が声を大にして怒鳴り合うくらいのことは、それに比べたらまったく可愛いものなのである。
それでも、深刻な喧嘩でも他愛ない言い合いでも、二人はいつだってちゃんと自分たちで仲直りをする。
そうと分かってからは、右近は二人の喧嘩には一切関わらないことにしているのだった。

(さて、今度はどっちが先に折れるのかねえ)
すっかり高みの見物を決めた右近は、むっつりと黙って歩く主の背を見つつ密やかに笑みを零した。



 「おら、いつまでもダラダラと食ってんで、とっとと仕事に行かんかい」
進之丞は朝食の場に最後まで残っていた丑松を怒鳴りつけ、その尻を箒でばんばん叩いた。
 「ちょっ、紅寅さん、今日は何をそないカリカリしとるんよ」
 「やかましい。掃除の邪魔なんじゃ」
 「あっ、分かったから叩かんで。……なんやもお、かなんなあ」
丑松は追い立てられるようにして腰を上げると、ぶつくさ言いながら道具を持って寅屋を出て行った。
進之丞は今まで丑松が座っていたところをざかざかと掃くと、店表に出て、やはり乱暴に外を掃き始めた。

 「なんや、今日は珍しく早う来た思うたら、ご機嫌斜めやな」
今日は店で帳面の仕事に取りかかっていた誠は、店表の進之丞を眺めて苦笑した。
 「なんや知らんけど、時々ありますよねえ」
亀吉が迷惑そうに眉を顰めて言った。
 「ま、触らぬ神に祟りなしですわ。下手に構うと矛先が手前に向きますさけな。くわばらくわばら」
 「せやな」
誠と亀吉はそんなことを言い合って、進之丞に構わず仕事を続けた。


巳の刻の鐘と共に小休憩を告げた誠は、進之丞に茶を言いつけて妻と子の居る自室に戻った。
やがて茶を運んできた進之丞の渋面を見て、春子は進之丞と良く似たその切れ長の目を丸くした。
 「なんやの、怖い顔して」
 「この顔は生まれつきじゃ」
 「何をそないぷりぷりしとんのよ」
春子は呆れたように言って進之丞から盆を受け取った。
誠は子をあやしながら、それを横目に見て言った。
 「紅寅さん、おおきに。…ところで」
 「ん?」
 「今日は暇そうやし、機嫌直るまで散歩でもしといで」
 「は?」
 「そない鬼瓦みたいな顔で帳場に居られたんじゃァ商売に差し支える」
ぴしゃりと言われて、進之丞は思わず顔を赤くした。
 「……分かった。そうする」
進之丞は小さく唇を噛むと、誠に一礼してその場を下がった。
荒っぽい足音が去って行くのを聞きながら、春子は夫を振り返った。

 「なに、あれ。進之丞さんどないしたの」
 「ああ、気にせんでええ。あれァどうせ、犬も喰わんて奴や」
 「えっ」
 「ほんまにヤバいときはもっと思い詰めた顔するさけ、あないしてぷりぷりしとるうちは大丈夫」
誠は苦笑して、進之丞が持って来た茶を飲んだ。
進之丞本人が煎れたものか、やたら渋いその茶に誠は小さく眉を寄せた。
 「へえ。さすが、良うご存知だこと」
 「そら、お前よりは付き合い長いさけな」
どこかからかうように言った春子に、誠は口の中に残る渋みも相まって苦笑しつつ答えた。
 「世良さんと再会する前の紅寅さんはあない機嫌悪いこともなかったけど、機嫌がええこともなかった。そん頃に比べたら、鬼瓦でも余程可愛げがあるってェもんや」
 「ほな、今頃は織部さんの方も鬼瓦になってはんのかしら」
 「さて紅寅さんが帰るが先か、世良さんが迎えに来るんが先か……お前、どっちやと思う?」
誠はそう訊いて、渋いだけの茶を盆に戻した。



 「風は、……無いな」
寅屋を追い出された進之丞は、空を見上げて独りごちた。
いくら暇とは言え半鐘が鳴れば駆け戻らなければならないので、ただの散歩でそう遠出するわけにも行かない。
しかし今日は風も無く、春めいていて絶好の散歩日和である。
久太郎通と堺筋の交差点まで出て、次に通る人が女なら天満へ、男ならミナミに行こうと決めた。
通り掛かったのは、職人風の男だった。
進之丞は堺筋を南に折れて、当て処無くぶらぶらと歩き始めた。

目的もなく歩きながら、織部の怒鳴る顔が思い出されて沸々と怒りが湧いてくる。
一方で、原因とかどっちが正しいとかは関係無しに、織部と喧嘩したという事実が少なからず胸に堪えていた。
怒りのすぐ横にへばりついている、あの織部を怒らせたというかすかな恐怖と、後悔と、泣き出したいような切なさ──それらから目を背けるようにして歩いていると、知らず早足になった。
だから声を掛けられたことにも、一瞬気が付かなかった。

 「おい、紅寅ってば」
 「えっ」
二度呼ばれてようやく我に返った進之丞は、足を止めて顔を上げた。
見れば、もう和泉屋のすぐ近くまで歩いてきてしまっていた。
 「ああ、万さん……」
 「なんや、どないした。シケた面して」
腰をかがめて顔を覗き込んできた万太郎を、進之丞は怪訝そうに見上げた。
 「……俺、シケた面しとる?」
 「少なくとも、楽しそうには見えへんな」
 「あー……すんません、ちょっと考え事しとって」
 「ふうん。珍しな」
 「俺かて考え事くらいしますがな」
万太郎は、心此処に在らずといった様子を珍しいと言ったのだが、からかわれたと思った進之丞は口を尖らせて反論した。
その言い様と表情が『いつもの紅寅』だったので、万太郎は内心少し安堵して小さく笑った。
 「んで、考え事しつつどこへ行くん?」
 「や、別に。ぶらぶらしとっただけよ。万さんは?」
 「俺ァ今から西照庵に仕出し頼みに行くとこや」
西照庵と言えば料理屋番付で大関を取った、大坂の高級老舗料亭のひとつである。
 「そらァまた豪勢じゃな。なんか、祝い事?」
 「いや、先代の御頭の法要や。先代があっこの料理がお好きやったさけな」
 「そうなんか」
 「ちょうど昼時やし、向こうで飯喰おう思うてたんや。暇なんやったら、付き合わんか」
 「え。いや、さすがにそがんとこで喰えるほどの持ち合わせは、」
 「大丈夫、仕出しの分にツケてもらうさけ。長い付き合いやし、安うしてくれんで」
 「でも……ほんまに、ええの?」
子供のような上目遣いで聞いてきた進之丞に、万太郎はくすりと笑った。
 「ウチの頭にはちゃんと言うておく。あの人のことやから、お前に恩が売れたと喜ぶ思うで」
 「なんか、かえって高う付きそうじゃの」
 「まあまあ。旨いモンでも喰えば、そのシケた面ァちっとはしゃんとするやろ」
万太郎はそう言って、進之丞の少し丸まっていた背中をばんと叩いた。


 「こがんご相伴に与ってしもて、和泉屋の先代と京治さんに感謝せなかんね」
初めての西照庵の味に舌鼓を打った進之丞は、ほくほくとした顔で両手を合わせた。
考えてみれば今朝は朝飯を食わずに出て来てしまったので、空腹で余計に苛々していたのかも知れない。
 「でも俺、万さんの飯のが好きかも」
 「嬉しいことを言うてくれる……が、さては酒も付けろという魂胆か?」
万太郎が苦笑しつつ言ったのへ、進之丞は小さく口を尖らせて見せた。
 「あ、ひどい。本心から言うたのに。俺がそがんケチくさいことを企む男じゃと思うんか」
 「はは、そらァ悪かった」
 「ほな、詫びに一本だけ付けてよ」
進之丞は一転からりと笑うと、小首を傾げてねだって見せた。
その仕草にふと、万太郎は先日の化粧をした進之丞の艶めかしさを思い出した。
 「……敵わんな」
どこまでが本当の企みだったのか、と思いつつも、万太郎はこの場は自分の負けを認めて銚子を二本頼んだ。

 「で、どないした」
 「ん?」
 「なんか気がかりなことでもあったんと違うんか」
万太郎が、銚子を傾けて訊いた。
進之丞はそれに猪口を差し出しながら、一瞬目を伏せた。
その所為で猪口が銚子の口に当たって、かちゃんと耳障りな音を立てた。
 「あっ、」
進之丞は小さく声を上げると、酒で濡れた手に唇を寄せた。
紅い舌を這わせたその肌の白さに、万太郎ははっとして息を飲んだ。
その視線に気づいた進之丞は、悪戯を見つかった子供のような顔で苦笑した。
 「一本だけじゃ思うたら勿体のうて、つい。行儀悪いことしてすんません」
 「……んで、どないしてん」
万太郎は無理矢理話を戻すことで、自分の気を逸らした。
そうとは知らない進之丞は、重ねて問われて困ったように眉を下げた。

 「いや、その……どうも、そがん真面目に心配されるとバツが悪いなあ」
 「えっ」
 「出がけに、ちっと喧嘩をしてもうてね」
 「喧嘩?誰と」
 「……家主と」
 「家主……?」
そこで万太郎はやっと、進之丞の喧嘩の相手を覚った。
 「なんや、家主とか言うさけ誰かと思うたわ。お前、それァ犬も喰わんてやつと違うんか」
 「!」
万太郎が気が抜けたように言ったのへ、進之丞は顔を真っ赤にして狼狽えた。
 「なん、なんで……」
 「そないなん、見てたら分かるがな」
 「……参ったな」
進之丞は赤い頬に手を添え、ひとつため息をついた。
酔いと照れに赤く染まった切れ長の目元に、匂い立つような色気が浮かぶ。
それを見ながら、参るのはこっちだ、と万太郎は内心で呻くように思った。

本当は、京治に言われるまで彼に想う人が居ることには気づかなかった。
あの紅寅がこんなに可愛らしい顔をすることも、その白い肌や仕草が時にはっとするほど色っぽいことも。
(せやけどこれァ、堪らんな……)
もしも京治が自分のことで思い煩って、それが故に自分以外の他人の前でこんな顔をしていたら──と思ったら、甘い嫉妬と嗜虐的な愉悦が胸をくすぐるように引っ掻いた。
けれどあの真面目な侍は、そんな感情を愉しめるほど色事に擦れてはいないだろう。

 「先生が、お気の毒やな」
 「えっ」
 「お前、いま手前がどない顔をしてるか、分かるか…?」
万太郎は不意に腕を伸ばすと、大きな手で進之丞の顎を掴んだ。
深く暗い色をしたその目に、進之丞は思わずぞくりと肌を粟立てた。
 「万…、」
 「付け入って、しまいとうなるぞ」
万太郎は少し湿ったような低い声で言うと、薄く開いた唇を親指でつと撫でた。
そして他の四指を、耳朶の付け根から首筋へ優しく這わせる。

(これァ、危ないな)
吸い込まれるような暗い色気と官能的な指先、被虐的な期待を煽る逞しい身体。
まるで、甘くて口当たりのいい、けれど実際にはきつくて強すぎる酒のようだと思った。
その甘く妖しい芳香は、飲めば悪酔いすると分かっていても、ちょっとだけなら……という出来心を誘う。

───などと冷静に考えていられることに、自分も随分心持ちが変わったものだと思う。
こんな手慣れた男がこんなあからさまな誘惑をしてくるのも、今や織部の所為なのか。
自分が過去に身に付けた手練手管さえも、今は自分を守るためのものでしかない。

喧嘩中の今はそれもちょっと癪だな、と思いつつ進之丞は小さく苦笑した。

 「火消のくせに、火遊びのお誘いか。感心せんな」
 「ホンマに火事になったら困るやろ」
万太郎はしれっと言って、白い肌を指先で弄ぶように撫でた。
 「ほうね。……でも困るのは俺より万さんの方じゃと思うよ」
進之丞は目の端に悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、唇を這うその指に軽く舌先を当てて言った。
濡れた、艶めかしいその感触に、万太郎は思わず喉を鳴らした。
 「俺が、どう、困るって……?」
 「自分の胸に聞いてみんさいや」
 「…………」
 「前にも、似たようなこと言われたよ。織部のことで思い煩う俺は、色っぽいらしいね」
 「……分かってて、そないな顔をしとるんか」
万太郎は、そこで織部の名を出した進之丞を睨むように目を細め、薄い唇に当てた指先にほんの少し力を込めた。
侵入して来ようとするその指に、進之丞は笑いながら歯を立てた。
 「!つ、」
 「したくてしてる訳じゃァない。織部の所為よ」
 「──は、」
その言葉に万太郎は呆気に取られたような顔をすると、進之丞から手を放した。

 「……つまらんな。もうちっとかいらしい反応するか思うたのによ」
 「悪いが、それほど初心じゃァない」
 「はあ、お前はホンマ残念な男やな」
 「何を言う、相手が良かったと思いんさいや。あんたみたいな男は、相手によっちゃ火遊びじゃァ済まんなるぞ」
 「余計なお世話や。お前の困った顔を見たかっただけやのに、火遊びどころか水をぶっかけられた気分やで」
万太郎は噛まれた手を振って苦笑すると、まだ少し酒の残る銚子を取ってため息をついた。

 「つまらん喧嘩なら、先に折れるが勝ちや。こない言うたらアレやが、お前のが先生よりよっぽど上手やろう。いくらでも巧いこと仲直り出来そうなもんやがな」
 「そ、それとこれとは話が別なんじゃ」
話を戻された進之丞は再び顔を赤らめたが、思い切り惚気を喰らった万太郎は最早取り合わずに笑っただけだった。
 「ま、そないなとこがお前の可愛げゆうたらそうなんかも知れんけど。意外にガキくさいとこあんねやな」
 「……うるさいよ」
 「大人の喧嘩は仲直りを愉しむものやで。そない火消も色恋の醍醐味やん」
万太郎は口元を歪めて、やはり暗い色気を帯びた笑みを見せた。
 「その悩ましい面のまま帰ったらええねん。手前の所為でツレにそないな顔させてると知ったら、俺やったら堪らんけどな」
 「……あんた、ホンマ際疾い男じゃなあ。醍醐味も結構じゃが、あんまり危ういことしとると痛い目見るで」
 「さんざ痛い目見た末の、悟りの境地やがな」
 「ぶっ。あんたみたいな男に悟りを開かせるたァ、京治さんは大したもんじゃな」
 「──は!?」
 「あ、」
うっかりその名を出してしまった進之丞ははたと口を押さえたが、不意を衝かれた万太郎は意外なほど動揺を見せた。

 「ご、ごめん、野暮を言うた。悟りとか言うけぇあんまりおもろうて、ついうっかり」
 「…京が、言うたんか」
 「あ。万さん、『京』って呼んでんだ?」
 「…………」
茶化したらすごい目で睨まれたので、進之丞は思わず口調を改めて言った。
 「斬られて死にかけとった万さんを、京治さんが熱烈に口説いてるの聞いてしまいました」
 「…さよか」
 「じゃけぇ言うて、今のをそちらさんの喧嘩のダシに使わんでよ。トバッチリは御免じゃけぇな」
 「せえへんわい。冗談でもお前にちょっかい掛けたなんて言うたら、どないな目に遭うか分からんわ」
万太郎は両手で顔を覆って、盛大なため息をついた。
 「はあ、とんだ藪蛇や……」
 「まあまあ、そがん言わんと。万さんの弱味掴めて、俺少し元気出たよ?」
 「…………」
 「冗談じゃって。でも旨い飯と酒を頂いて、話聞いてもうて元気出たのはホンマよ。おおきにな」
進之丞はからりと笑うと、万太郎の太い腕をぽんぽんと叩いた。



前を行く不機嫌な背中に構わず、右近は春めいてきた町の空気を愉しみつつ歩いていた。
公用で外へ出たついでに気分転換でもとよしやへ昼食を誘ったのだが、織部の足取りは険しく、麗らかな陽気にも漂う花の香にも全く気づいていないようだった。

(まったく、今度は一体何が原因なんだか……)
と半ば呆れつつ思っていると、行く手に見覚えのある大きな背が見えた。
それに声を掛けようとしたその時、大きな背の肩口から見間違いようもないザンギリ頭が覗いた。
右近は咄嗟に口を噤むと、腕を伸ばして織部の袖を引いた。

 「?どがあした」
怪訝そうに振り向いた織部の肩越しに、確かに万太郎が一瞬此方を見たのが見えた。
 「あっ、いやその、ほら、あそこの桃が綺麗ですよ」
右近は行く手と反対側を指し示しながら言った。
しかしその先にあったのは桃の木ではなく、もう花の落ちた梅の木だった。
 「あれァ梅じゃろう。もう花も落ちとるじゃなぁんか」
 「あ、あれ……おかしいな、見間違えたみたいです」
右近が下手な嘘を下手に誤魔化すのを目の端に留め、万太郎は首を戻した。

 「なに、知り合いでも居った?」
大きな身体のその向こう側に誰が居るとも知らない進之丞は、無邪気に聞いた。
 「ああいや、別に。……ところで、紅寅」
 「わっ。なに、急に大声出さんでよ」
いきなり声を大きくした万太郎に、進之丞は思わず耳を塞いだ。
その手を取って、耳元に囁く。
───背中越しの視線に、見せつけるように。

 「喧嘩の後の仲直りってなァ、燃えるで」
 「!!」
万太郎は顔を真っ赤にした進之丞を、努めてさりげなく、背後の視線から隠した。
その刺々しい気配が通り過ぎるのを待ってから、手を放す。
 「〜〜〜意趣返しのつもりかよ」
 「このまま帰ったら、俺ァやられっぱなしやさけなあ。ほな、精々気張んな」
万太郎はこの男にしては珍しく楽しそうに笑って、顔を顰めた進之丞の肩を叩いて行ってしまった。

 「……ホンマ、やらしい男やなあもう」
進之丞は未だ顔を赤くしたまま独りごちるように毒づくと、ミナミに背を向けた。



織部の歩みは先刻よりますます険しくなり、まるで果たし合いにでも向かうかのようだった。
右近はその後ろを小走りに追いながら、苦々しく顔を歪めた。

さっきの一瞬、万太郎は確かにこっちを見て、しかも笑った。
(あれ、絶対わざとじゃろ……)
多少色っぽいおふざけくらい、進之丞は冗談で済ませられるだろうが『こっち』はそうはいかない。
その上万太郎はすぐに自分の身体で視線を遮ったので、進之丞は自分たちが居たことに多分気づいていない。

 「……右近」
 「はっ」
 「よしやはまた今度にする」
織部は言うなり踵を返すと、さっさと来た道を引き返し始めた。
その道の先に、進之丞の姿はもうなかった。
*挿絵