酔い覚ましに歩くには、大通りより川沿いの方がいい。
そう思った進之丞は大通りを東に折れて、東横堀川沿いに出た。
川が運んでくる涼気がまだかすかに熱い頬を覚ましてくれるのを感じながら、心もすっかり落ち着いていることに気づく。
喧嘩の愚痴を聞いて貰ったならともかくも、惚気を言った上にそれで気が済んでしまうなど、我ながらなんと他愛のないことかと思う。

 「喧嘩は仲直りを愉しむもの、か……」
さすがにその境地はまだ遠そうだが、先に折れた方が勝ちだというのは良く分かる。
これまでは大抵織部の方が先に折れてくれたし、その度自分は気まずい思いをしてきた。
だから今回は先に自分の方から謝ろう、と腹を括って寅屋に戻った。

 「おっ。ご機嫌直ったんか」
進之丞が戻るなり、誠はその顔を見て言った。
その冷やかしに進之丞は小さく眉を顰めると、まあなと頷いてその脇を通り抜けた。
誠は見慣れたその表情に内心で安堵して、さよか、とだけ言って笑った。


しかし進之丞の決心は、半鐘の音によって吹き飛んだ。
普請に出ていた連中が帰ってきて、さあ夕飯にしようと言う時に、雨寅の持ち場である西船場で火が出た。
寅屋の皆は店半纏を火消装束に着替えて、即座に火事場へ出動した。
無風のため火はさほど燃え広がらずに消し止められたものの、ちょうど夕飯の煮炊き時のことで火元の判明に時間が掛かった。

付け火の場合、犯人は問答無用で火あぶりだが、失火の場合は火元が礼銀という形の膨大な罰金を支払わされる。
なので付け火か失火か、失火なら火元はどこで何が原因なのかを厳しく検分する必要があり、時には奉行自ら吟味を行うほど火事は重大な事件なのである。
火事跡の検分は奉行所火事方の仕事だが、火元の追求には火消も勿論協力する。
そんなこんなで寅屋に戻った時にはすっかり夜になってしまい、腹も空いたし風呂も入りたいしで、進之丞は結局その晩は店に泊まった。

更に間の悪いことに、次の日からは三日間の夜廻り当番だった。
平素なら夜廻りの後そのまま家に帰れるのだが、火事の直後とあって念を入れた見廻りが朝まで続き、結局四日が経ってしまった。
そして今晩は五印の会合である。
以前は堅苦しいのが嫌だとかなんだとか言って会合に出るのを避けていた進之丞だったが、寅屋に腰を据えてからは一度も欠席せず、誠が出られないときはその名代を務めるようになった。
だから今日こそ家に帰らねばと思いながらも、会合には出た。


五印の会合は月に一度、大抵は惣会所で行われ、偶に町に金を落とすという建前で茶屋を使ったりもする。
今日の会場は京町橋から一番近い、北船場の北組惣会所だった。
この一月にあった火事、各町店舗の新規参入・退店、装備に関することなどの定期報告を終えると、労いの酒が出る。

四日前の喧嘩は、万太郎に惚気て気が済んでしまっていたのとその後の忙しさのために、『進之丞の中では』すっかり終わったことになっていた。
けれど織部と喧嘩したままだということは頭の隅にあったので、一、二杯飲んだところで失礼しようと思いつつ杯を舐めていると、当の万太郎が銚子を片手にやってきた。

 「おう、仲直りは愉しめたかよ」
にやにやと笑いながら声を掛けてきた万太郎に、進之丞は小さく眉を寄せて首を振った。
 「いや、あれからなんじゃかんじゃ忙しゅうての」
 「えっ」
 「あの日の夕方に西船場で火事があったろ。そっから三日当番で、今日やっと帰れるってとこよ」
それを聞いて、万太郎はかすかに顔色を変えた。
 「なに、変な顔して」
 「いや……もうてっきり、仲直りしたもんかと」
 「まァ四日も経ったら喧嘩のネタも忘れてしもた。そんくらいのことじゃけん、向こうも多分もう覚えとらんよ」
 「…………」
 「ほいでもあれっきりになっとるけん、今日は軽く飲んで先に失礼しよう思うてるけど……って、なによさっきから」
 「……ちょっと、顔貸せ。言うとかんならんことがある」
万太郎はそう言って立ち上がると、進之丞の腕を引いてやや強引に廊下へ連れ出した。
そしてひとつため息をついてから、ひどく申し訳なさそうな顔をして声を潜め言った。

 「今やから、言うけど」
 「な、なんね」
 「あの日、ミナミで別れたやろ。あん時、あそこに先生おってん」
 「へ?」
 「せやから、あの日の別れ際、世良先生が通りかかったんやって」
 「──は!?」
 「しっ」
万太郎は、思わず大声を上げた進之丞の肩を慌てて抱き寄せた。
その瞬間にあの時の事を思い出した進之丞は、上目遣いにぎろりと万太郎を睨みつけた。
 「まさかあんた、それを知っててあがぁなこと……」
 「いや、ちょいと、仲直りの愉しみを増やしてやろうかと思うて」
 「……あいつ、俺に気づいてた?」
そう訊くと、万太郎は男らしく太い眉をすっかり下げて頷いた。
進之丞は四日経ってやっと、あの時万太郎が急に声を大きくした理由と、去り際の笑顔の意味を覚った。

 「あ……悪趣味にも程があんぞ!」
 「悪い、悪かった。まさかお前があのあとずっと帰られへんとは思うてんかって」
 「お前ら、何を騒いでる。中まで聞こえとるぞ」
 「!」
いつの間にか背後に居たその人の声に、万太郎はびくりと身を竦めた。
その手を振り払い、進之丞は叫ぶように言った。
 「京治さん、この人ァホンマひどい男じゃな!」
 「あっ、阿呆お前、やめろ」
 「阿呆じゃと?あんたにそがん言われる筋合いはないわ!頭来た、全部バラしたる」
 「待て待て、そないなことしとる暇があったらお前、とっとと帰っとけ」
 「何を今更、もう四日も経ってんねんぞ」
 「せやから──」
 「お前もう黙っとけ、万太郎」
しばし二人の言い合いを聞いていた京治はそこでぴしゃりと言うと、二人の間に割って入った。

 「紅寅、うちのモンがお前になんぞしたんか」
 「万さんに、弄ばれた」
 「もっ、……お前、人聞きの悪いこと言いな!」
 「万、黙っとれと言うたのが聞こえんかったのか。三度は言わんぞ」
京治は狼狽えた万太郎を冷静に一喝したが、無表情の裏には動揺を隠しているのが分かる。
万太郎はと言えば、本当に浮気現場を見つかったかのような顔をしていた。
進之丞はそんな二人の顔を交互に見遣ると、ふう、と少しわざとらしいため息をついた。
 「……もう、ええわ」
 「えっ」
 「もう済んだことじゃし、お互い大人じゃけえね。……俺も忘れるけん、万さんも、忘れて」
進之丞は京治の肩越しに上目遣いの視線を万太郎に送りつつ、大層思わせぶりに言った。
 「すいません、京治さん。あとは俺の口からはよう言えんけ、万さんに聞いてつかあさい。今日はお先に失礼さしてもらいます」
 「べ、紅寅……」
顔色を変えた京治の後ろで、万太郎はやられた、といわんばかりに天を仰いだ。
進之丞はそんな二人の横を一礼しつつすり抜けて、座敷の襖に手を掛けた。

 「蛇の目の旦那。あの時別れ際に言われたこと──そのままそっくり、あんたに返すよ」
 「!」
振り向いた万太郎に、進之丞はべえと舌を出して見せた。



誠に断って先に惣会所を辞した進之丞は、まっすぐ家に向かって駆けた。
家の二階に灯りが点いているのが視界に入ってきた途端、心の臓が嫌な音を立てた。
そしてそれは、玄関に揃えられた織部の履物を見て一層喧しくなった。
無言で階段を上がり、一つ息を吸い込んでから、意を決して仏間の障子を開ける。
織部は手燭一つの灯りの中で、刀の手入れをしていた。
ほの暗い光に浮かぶ険しい顔に、思わず息を飲む。

 「お、織部……」
 「埃が舞う。静かに閉めろ」
織部は顔の前に立てた刃から目を逸らさず、懐紙を咥えたまま短く言った。
進之丞は言われたとおりそろりと障子を閉めると、その敷居際にちょこんと腰を下ろした。

灯りを映した冬廣の刃が、細く鋭く光る。
それに打ち粉を振り丹念に曇りを取り除いたあと、ひとしきり灯りに翳して見つめてから、織部はやっと冬廣を鞘に収めて言った。
 「家出は終わりか」
不意に掛けられた低い声に、進之丞は驚いたように身体を竦めた。
 「……そがんことも、あったっけね」
 「俺の頭が柔らかくなる前に、お前の頭は物覚えが悪くなったようだな」
いつもより低い声、訛りのない言葉。
それでいて静かで、けれど嫌味たらしい物言いに、やや怯む。
しかし自分から先に謝ると決めたのだし、と進之丞は意を決した。
 「織部。あの───その、ごめん」
進之丞は両膝に手を揃えて詫びを述べ、ぺこりと頭を下げた。
けれど織部は、酷く冷たい声で言った。
 「何のことだ」
 「四日前の朝のことよ。その……なんであがぁ喧嘩したか実はもう覚えておらんのじゃけど、俺も大人げなかったなあて……」
 「覚えておらんとな。そんな言葉面だけの詫びなら要らん」
織部はにべもなく言って冬廣を刀掛けに置くと、進之丞を一瞥もせずにその横を通り過ぎて部屋を出て行った。

(……一度も、俺を見んかった)
進之丞は胸が軋むように痛むのを覚えつつ、ぎゅっと唇を噛んだ。
多分不機嫌で居るだろうとは思ったが、これはさすがに取り付く島もない。
とにかくあの時のことをちゃんと話さないと、と思い直し、隣の寝室へ織部を追った。


障子を開けたままの暗い寝室に、ぼんやりと織部の背が浮かんでいる。
進之丞は後ろ手に障子を閉めると、行燈に手燭の火を移す織部の背へ、もう一度詫びを述べた。
 「喧嘩したことも、その原因を覚えとらんことも謝るよ」
 「…………」
 「じゃけぇ、こっち向いてくれんか。話をしとうても、お前がそがぁに聞く耳を持ってくれんのではどうしょうもない」
しかし、もう火は行燈に移ったのに、織部は振り向こうとしない。
進之丞は小さくため息をつくと、織部の背後に腰を下ろしてその袖をちょいと引いた。
 「織部。こっち、向いてけぇよ」
 「……覚えとらんのに、何を話すというんじゃ」
 「それじゃのうて。あの日の昼過ぎ、お前、見たんじゃろ。その、俺と万さんが……」
進之丞は、いつもの言葉遣いに戻った織部に内心でほんの少しほっとしつつ言った。
しかし織部はその名を聞くなり、袖を掴む進之丞の腕をほとんど反射的に振り払った。
その勢いで、手の甲が進之丞の額に当たって硬い音を立てた。

 「!あ、」
 「……ってェ、」
進之丞は叩かれた額を手で覆って、小さく唇を噛んだ。

例の喧嘩は、発端は覚えてないが自分は悪くないと今も思っている。
ただ、この四日のあいだ自分だけその原因を忘れて、事が済んだ気になっていたことは申し訳ないと思う。
そう思ったから素直に謝ったのに、いくらなんでも叩かれる覚えはない。
それもこれも、万太郎が余計なことをしてくれた所為だ。
(愉しみ増やすどこか、余計こじれただけじゃなぁんか。あのクサレ蛇の目め)
進之丞は内心で万太郎に毒づきながら、沸々と湧き起こってくる怒りに険しく顔を歪めた。

 「わ、悪い、進之丞……」
さすがに顔色を変えて詫びた織部を進之丞はぎろりと睨み返すと、その衿に掴み掛かった。
 「人が殊勝に頭を下げてりゃァ調子に乗りおって、ええ加減にせえよ!」
進之丞は掴んだ衿を力任せに引いて怒鳴ると、横倒しにした織部の上に馬乗りになった。
ようやく自分を見たその目を覗き込むように、ぐいと顔を近づけて問う。
 「お前がそがん怒ってるなァ、俺と万さんが逢い引きでもしてたと思うてるからか?」
 「!」
 「あがなしょうもない悪戯にまんまと引っ掛かりやがって、阿呆が。大体な、ホンマに浮気するんじゃったらもっと巧いことやるわ」
 「そ、そがなことは、思うとらん」
 「ほな何を怒ってる。言えよ」
 「…………」
進之丞の剣幕に、織部は眉を下げ観念したようにひとつ息を吐いた。
 「お前が浮気しとったなんて、思うとらん。ただ、不愉快じゃっただけじゃ」
 「ああそうかい。じゃがの、大体それもお前の所為じゃ」
 「俺の?」
 「お前と下らん喧嘩をした所為で俺は店を追い出されたんじゃ。ほいで西照庵に行くとこじゃった万さんに出くわして、ついでに昼飯奢ってもうただけのことよ」
 「……それでなして、あがなことになるんじゃ」
 「あがなことって、なによ」
 「それを俺に言わせるのか?」
 「俺はお前が怒るようなことはしとらん。じゃけぇ、お前が何をどがぁ思うたのか言えと言うとるんじゃ」
 「……耳元に顔近づけられて、お前、顔赤うしてた」
 「ほいで?何をしてると思うたんよ」
 「〜〜〜知るか!」
織部は進之丞の詰問に堪りかねたように叫んで、衿を掴む進之丞の手を取って身体を反転させた。
組み敷いた進之丞の顔の横にばんと掌を叩きつけ、互いに厳しく睨み合う。

 「何を言われた。俺には聞こえんかったけぇ、教えてくれよ」
 「喧嘩の後の仲直りは、燃えるでって言われたんじゃ」
進之丞は、顔を歪め吐き捨てるように言った。
なので一瞬、織部はその意味が理解出来なかった。
 「は……?」
 「万さんはお前があっこに居るのに気づいたけぇわざとそがんことを言うたんじゃ。じゃけ、みんな全部お前が悪い!」
 「えっ」
 「ほいでも俺はあの日、帰ったら手前から謝ろう思うとった。けど夕方に出動があって、そん次の日から三日夜廻り当番で、帰るに帰れんかったんよ。ほんでさっき会合で万さんに会うて、あん時お前が居ったゆうの聞いて急いで帰ってきたんじゃ」
 「…………ほうか」
 「分かったか。俺はなんも悪うないぞ」
進之丞は勝ち誇ったように言うと、目の前にある織部の胸をどんと叩いた。
そのまま押し退けようとしたが、織部は退かなかった。

 「なんじゃ。重いんじゃ、退けよ」
 「……ごめん」
織部は進之丞の文句を黙殺して、その上に乗ったまま小さく頭を下げた。
 「何についての詫びよ」
 「でこ、はたいてしもて」
 「それだけか」
 「四日前の朝の件なら大人げなかったなァお互い様じゃし、お前の詫びを貰うた以上はもう蒸し返すつもりはない。ただ、俺と喧嘩した所為でお前が寅屋を追い出されたゆうのが良う分からんのじゃが」
 「不機嫌な面ァぶらさげとったら商売に差し支えるけん、散歩でもしてこい言われたんじゃ。ほいたらミナミで万さんに出くわして、西照庵の昼飯奢っちゃるけん元気出せって」
 「ふむ、万太郎殿はお前を心配してくれたという訳か。ほいで帰りがけに冷やかされたのも、そこに俺が通りがかった所為じゃと」
 「仲直りの愉しみを増やしちゃろうと思うたんじゃと。まったく、冗談じゃァない」
 「なるほど。……そういうことじゃったか」
織部はやっと事のあらましを知ると、他人事のように言った。

あの日の喧嘩については、今も自分は間違ったことは言っていないと思う。
だから進之丞が頭を下げて帰ってくるまでは、自分からは絶対に折れないと決めていた。
そうしたら、家出だなどと言って出て行ったその日に、昼間から他の男にあんな顔を見せていたなんて。
進之丞はこちらに気づいてなかったと右近は言ったが、そんなことは関係ない。

四日前の西船場の火事に雨寅が出動したことは多聞から聞いたし、進之丞が翌日から夜廻り当番なことも気の利く家臣が教えてくれた。
それでもなんの音沙汰もなかったこの四日の間、自分がどんな気持ちで居たのかも知らずに『全部お前が悪い』などとはよくも言ってくれたものだと思う。
しかし感情に任せて吐いた───恐らくはその本音が、憎たらしくも愛おしくて、また憎い。

(可愛さ余ってなんとやらとは、このことじゃ)
これは単なる嫉妬なのだと頭では分かっていても、こうした独占欲というやつはどうにも始末が悪い。
織部は、まだ感情的な色を残している進之丞の目を見つめながら内心でため息をついた。
*挿絵
「仲直りの仕方」2