「さて、聞かしてもらおうやないかい」
京治は漸く口を開くと、羽織を脱ぎ捨ててどっかと座り込んだ。
万太郎は畳に落ちたそれを拾って壁に掛けながら、小さくため息をついた。

あれから京治は一切自分と目を合わそうとはせず、帰り道も一言も口を利かなかった。
問いただしもせず嫌味すら言わず、ひたすら無言を貫かれるのにはさすがに万太郎も参った。

 「……俺と紅寅に何かあったと、本気で思うてるのか?」
 「『弄ばれた』ってなァ、その気やったが騙されたちゅうこっちゃろ。せやが、あいつにそないな気があったはずがない。しゃあからどうせ、お前が一方的になんや要らんことをしたに決まっとる」
 「う、」
京治の推察に、万太郎は思わず呻いた。
それを見て京治はやっぱり、という顔をすると、涼やかな目を険しくして万太郎を見据えた。
 「万太郎。俺はな、俺の友人の心配をしとんねや」
 「!」
 「せやからとっとと事実を話せ」
京治はそう言うと、万太郎に向かって煙管を投げた。
あくまで抑えた口調ではあったが、強く投げつけられたそれは畳の上で跳ねて、万太郎の膝に当たった。
万太郎は煙管を拾ってその無事を確かめると、睨んでくる視線を外すようにして口に咥えた。
煙草盆を引き寄せて火を点け、一吸いする。

 「……つまらんな」
 「は!?」
吐いた煙の向こうで京治が大きな目を剥いたが、万太郎は興醒めしたような顔で煙管の灰を落とした。
 「ホンマ、つまらん話やで。───あいつあの日、世良先生と喧嘩したんやと」
 「喧嘩やと?」
 「随分しょぼくれとったさけ、旨いモンでも食うたら元気なるやろ思うて西照庵に連れてったんや。んでどないしたんか聞いたら先生と喧嘩したって話で、そりゃ犬も喰わんやつやろうと言うたら、あの紅寅が、小娘のように恥じらいよってな」
万太郎は言いながら、口元に好色な笑みを浮かべた。
それを見た京治は、ますますむっつりとして先を急かした。
 「……で?」
 「喧嘩中やゆうのに可愛い面ァしやがってと冷やかしたったら、したくてしとる訳やない、先生の所為やとぬかしよった」
 「ハ。からこうたつもりが、惚気られたか」
 「ああ、心配しただけ損やった。ほいで、ミナミまで戻って来たとこに先生が通りかかったんや。紅寅は気づいておらんかったが」
 「えっ」
 「で、まあその、ちっと悪戯心が湧いてなあ。あいつの耳元で『喧嘩の後の仲直りは燃えるで』と言うたんや。あいつ案の定顔真っ赤にして、先生から見たらちょいと気になる感じに見えたやろうな」
 「…………」
 「その、仲直りの愉しみを増やしちゃろうと、思うてさ」
 「…………」
 「けどその日のうちに仲直りするやろうと思うとったし、あいつも多分そのつもりやったんや。したら四日も帰ってへんて聞いて、こらホンマのこと言うといたらなアカンと……」
 「なるほど、『悪趣味』やな」
京治は口元を歪めてぴしゃりと言ってから、はあ、とため息をついた。

 「確かにつまらん話やった。もう下がってええぞ」
 「へっ」
 「お前のくだらん悪戯くらいでどうこうなる二人やない。ええ大人なんやし、ちゃんと仲直りするやろ」
 「それは、そやろうけど……、俺らは仲直りせんのでええのか?」
 「俺らァ別に喧嘩なんかしとらんやろが」
 「けどお前、怒ってるやんけ」
 「怒ってへん」
ぶすりと言いながら、京治は煙管を返せと手を伸ばした。
万太郎は新しい葉に火を付けてやってから、煙管の吸口を向けて差し出した。

 「紅寅は、俺がお前にさんざ怒られるのを期待しとったと思うけど」
 「やけ、なんや」
 「お前が怒ってへんのなら、あいつの意趣返しは失敗に終わったゆうことやな」
 「充分、冷や汗かいたやろ」
京治はそう言って煙管を唇で受け取り、一吸いしただけで灰を落とした。
 「それともなにか、しばかれたいのんか」
 「それァ嫌やな」
 「なら、もう下がれ」
 「ホンマに、下がってええのか」
 「しつこい。ホンマに怒るぞ」
 「ほしたら、いつも通りご機嫌を取るだけや」
万太郎は言うと、顔を顰めた京治の手を取った。
京治は特に抵抗するでもなく、自分の手を撫でる万太郎の指先を見つめて呟いた。
 「機嫌が悪いんは、お前の方やろ」
 「えっ」
 「お前、俺に妬いて欲しかったんと違うんか?」
そう言われて、万太郎は小さく眉を寄せた。
 「……そない思うてて、下がれと言うたんか」
 「ああ」
しれっと頷いた京治を、万太郎は堪らず引き寄せた。
白い首元に甘えるように鼻先を埋め、その耳元に囁く。

 「ホンマにお前は、紅寅を心配しただけか?……ちょっとも妬けんかった?」
 「どうかな。お前より、あいつのがずっと可愛いさけなあ」
 「……さよか」
拗ねたように言った万太郎に、京治はくくく、と笑った。
 「やっぱ、妬いとんなァお前の方やないか」
 「お前が俺より他の男を気に掛けるなんてこたァこれまでなかったさけ、正直戸惑うてる。これがヤキモチやゆうんなら、そうなんかもしれん」
 「はは、そうか」
京治は万太郎の言い様に満足すると、やっとその腕に身体を預けた。

 「世良先生のことを話すときのあいつは、可愛いよな。しゃあから冷やかしたなる気持ちも分からんではないが、ちょっかい出すんは紅寅の方だけにしとけ。先生は、ありゃ怒らせたらアカンお人や」
 「…………」
 「今頃は、あいつが肝の冷える思いしとんちゃう。手前は何も悪うないのに、可哀想なことやで」
 「それァホンマ、反省してます」
 「ああ。今度、なんかの折りに埋め合わせしたり」
京治は苦笑しながら言うと、その胸へ甘えるように顔を埋めた。
それに万太郎は少し吃驚しつつ、寄せてくる肩を抱いた。
 「……お前、なんでいつの間にか機嫌良うなってんの?」
 「そう見えるか?」
 「ああ」
 「なら、お前が珍しく妬いてくれたりしたからかな」
京治はそう言って、どこか子供のような顔で嬉しそうに笑った。

 「けど別に、お前が妬くようなことやない。俺はただ、あいつと先生のことが好きやから、今のまま三郷に居って欲しいだけや」
 「今のまま……?」
 「あいつの来し方を聞いたことはあれへんが、元は歴としたお武家の子が今は大坂で火消をやっとるなんざ、何か訳があるに決まったるやろ。ほいで先生は芸州の殿様からの縁談を蹴ってまで、あいつのために大坂へ来たんやそうや」
 「えっ……」
 「きっと、並大抵のことやない。それでもあいつは先生の側に居りたいと言うた。───そん時のあいつがエライ健気でなあ、俺ァ抱きしめてやりとうなったよ」
 「…………」
 「お武家の事情は良う分からんが、分からへんからこそ、俺は何があってもあいつの味方をしたろうと思うてる。それだけのことや」
 「……そうか」

京治が自ら友人と呼んで、こうも個人的な思いを寄せた人は他に居ない。
そして自分との関係を明かした相手も、彼の他には居ないはずだ。
京治が自分以外にも心から頼れる人が出来たことを、安堵と共に嬉しく思う。

一方であの時垣間見た、恐らくは京治も知らない彼の顔が、胸に支えている。
妖艶で、否応なく人の劣情を煽るあの顔と仕草を見た瞬間、これは『危ない』と思った。
それは迂闊に触れれば破滅を招きそうな、妖しく危険な闇と色の匂いがした。
彼は自分がそう感じることを分かっていたからこそ、あそこであの顔を見せて言ったのだ。

『困るのは俺より万さんの方じゃと思うよ』───と。


(紅寅、お前は一体、どうして……)

と思いかけて、やめた。
それは多分、自分が知らなくていいことだ。
ただ、今はきっと幸せで居るはずの彼にそんな顔をさせてしまった、自分のつまらない悪戯心を今は悔いるばかりだった。

 「……ホンマ、つまらんことをした。俺、阿呆やな」
 「分かったなら、もうええて」
京治はその胸の内を知らずに、首元に縋る万太郎の頭をぽんぽんと叩いた。
そんな京治を抱く腕に、万太郎はぎゅうと力を込めた。
 「うん……」
 「?どないした」
京治は強く抱きしめてくる万太郎の顔を怪訝そうに覗き込んで、苦笑した。
 「阿呆やとは思うが、そない落ち込まんでもええやろ」
 「えっ」
そう言われて万太郎は、自分が落ち込んでることを知った。
それほどにあの時の彼の顔や仕草が、今頃ひどく胸に堪えた。

 「……京」
 「うん?」
 「俺も、なにがあっても、あいつの味方をしたろうと決めた」
 「え」
その言葉に、京治は少し驚いたように万太郎の目を見つめた。
けれどそれ以上は問わずに、そうか、とだけ言って、自分より二回りほども大きな図体をした男の頭を優しく撫でてやった。