牡丹、水仙、紅梅、花桃…

こんなに花を眺めたことなどあっただろうか

櫻色の着物を待ち焦がれるあの月のように
華やかな止まり木を探して飛ぶ鶯のように
温む風が春と共に君を連れてやってくるのを
まだ咲かない櫻の木の下でひとり待っている



宵待櫻

 「今年は遅いですねえ」 先日祝言を挙げたばかりの、寅屋の卯一ういちはそう言いながら、全身を舐めていった冷たい風に肩を竦めた。 見上げた視線の先には明けかけた紺色の空と、まだ固く小さな蕾を閉ざす桜の木があった。  「この寒さじゃけん、もうちと先じゃろ」  「でももう四月になろうかゆうのに」  「ほうじゃね、坊や」 拗ねたような卯一の口調に苛ついて、進之丞は思わず嫌味を言った。 言われずとももうすぐ四月であることなど、三月になった日から毎日狂おしいほどに思っている。  「桜は時期じゃのうて、急にぬくなると驚いて咲くんじゃと」 そう言うと、卯一は驚いたように瞠目し足を止めた。  「……なんじゃ」  「いや、紅寅さんがそないなこと言わはるとは思うてませんでした」  「俺、なんぞおかしなこと言うたかの」 思い切り眉を顰めてみせると、卯一は臆する様子もなく笑った。  「意外に詩趣がおありなんやなと」  「やかましいわ」 少し、感傷的になってるんだろうか。 卯一に先刻の嫌味の仕返しをされた進之丞は、苦々しい思いで黙り込みながら拍子木を懐に仕舞った。  「お疲れ、もうええぞ。嫁さんと朝飯が待っとるじゃろう」  「したら、お言葉に甘えて。……ありがとうございます」 卯一は真面目くさった顔で頭を下げた後で、照れくさそうな笑みを零した。  「真っ直ぐ帰れよ」  「そのままお返ししまっせ、その台詞」 そう言って、あくまでも口の減らない若者の力強い背中はあっという間に朝焼けの向こうへ消えていった。  「……寄る処なぞ、ありゃせんわ」 その背に、舌打ちしながら愚痴るようにひとりごちる。 しかし何処か微笑ましい気持ちでその背を見送り、進之丞は再び独り早暁の町を歩き始めた。 商家の朝は早い。 雨戸を開けて開店の支度をする人や、仕入れに出掛ける人の姿がちらほらと通りに見えてくる。 町が無事に朝を迎えたことに安堵しながら、進之丞はそこで足を止めひとつ伸びをして、朝の澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。  「紅寅さんやんか。おはようさん」  「あ、おはようございます」  「夜回りご苦労さんやな。いま帰りか?」  「ええ、これから昼まで寝ますわ」  「毎日徹夜で大変やなあ。あ、そや」 酒屋の親爺はそう言うと、そこで待っていろと手振りして店へ入り、徳利を持って再び出てきた。  「徹夜明けに寝酒なんて必要ないやろけど」  「えっ、ええの?」  「そんかわり、万が一火ィが出たときはよろしゅうな」  「ああ、親爺さんとこよう燃えそうじゃもんな」 進之丞はそう言いつつ、高く積まれた酒樽を見上げニヤリと笑った。  「毎朝この時刻にここ通ろうかなあ」  「なんや毎日たかろう言うんか。燃える前に店潰れてまうわ」  「じゃろ?じゃけぇ、袖の下も火ィもアカンゆうことよ」 そう言って手を振ると、親爺は負けたと言わんばかりに両手を挙げた。  「……不粋なこと言うて悪かった。これは勉強代や」  「そういうことなら、有り難く」  「あんたにゃかなわんなあ」  「袖の下はもっと偉いさんに渡すもんよ」 進之丞はカラリと笑って徳利を受け取りつつ、苦笑いしきりの親爺の背を叩いた。 町の人達と朝の挨拶を交わしつつ歩き、寅屋が見えてきた頃にはすっかり夜も明けた。 店先の提灯の火も既に消され、数人が現場に出る支度をしている。 土間では番頭の亀吉と帳場係の久馬が今日の現場の確認をしていた。  「あ、おかえりなさい。お疲れさまです」  「おう。とりあえず特に問題無しじゃ」  「そうですか、よかった」  「でも町の人はやっぱりちと神経質になっとるな」  「そうでしょうねえ。風の強い日とかは見回り増やした方が良いかも知れないですね」  「ああ……ってお前、目ぇ真っ赤やぞ。わ印でも見とったんか」 進之丞が笑いながらそう言うと、帳場に居た連中からも笑いが起きた。  「ちっ、違いますよ!今晩の会合に持っていく書類を夜なべでまとめてたんです!」 亀吉は耳まで赤くしながら、怒ったように声を張り上げ否定した。  「ああ、そりゃ悪かった、お疲れさん。詫びに寝酒呑ましちゃるけん、そう怒んな」 進之丞はふて腐れた亀吉の肩を叩きながら、手にした徳利を掲げて見せた。  「!ちょっと紅寅さん、それ」  「酒屋の親爺に商いの心得と処世術を教えたってな。勉強代よ」  「……空きっ腹は駄目ですよ。一緒に朝飯喰いましょう」  「ああ、そうじゃね。ほしたら俺の部屋で」  「じゃあ持っていきますね」  「うん」 進之丞は拍子木と半纏を久馬に渡すと、昼に起こしてくれるよう頼んで帳場を後にした。 朝餉をすっかり平らげ、酒の肴に残しておいた漬け物を箸でつまみながら、亀吉は溜息をついた。  「今や漬け物も倍の値段ですよ」  「ほうか、ほなら大事に喰わないけんなあ」  「もう四月になるってのにまだ寒いですし、こうなるともう不作じゃなくて凶作ですね」 亀吉はそう言ってしみじみと漬け物を噛みしめながら、酒を注ぐ進之丞を上目遣いにちらりと見上げた。  「……あの、念のためにお伺いしますが」  「うん?」  「それ、心付けじゃないんですよね?」  「親爺はそのつもりじゃったようじゃが、それなら受け取れんと言うた」  「ほな、なんで……」  「俺に酒渡し続けておったら火事になる前に店潰れるぞ言うたった」  「はは、ほんで勉強代ですか」  「よろしゅう言われても、俺らは火ィ出たら壊すしかないしな。親爺も分かっておるじゃろうがなんもせずには居られんのやろう」  「それくらい、不安になってるってことですなあ」  「若いモンには町の人から何も受け取らんようもういっぺん言うといた方がええかも知らん」  「そうですね、そうします」 隙間から吹き込む風が、障子をガタガタと揺らした。 まだ春の気配を少しも感じさせないその冷たさに、進之丞は少し苛ついたように盃を舐めた。  「春、お好きなんですか」  「ん?」  「今年は春が遅いて、ここんとこずっと言うてはるから」  「……寒いのん、嫌いなんじゃ」 進之丞はそう言って酒を一息に呷ると、小さく溜息をついた。  「……俺、そんなに言うとるか」  「ええ……まあ、芸州に比べたら大坂の冬は寒いでしょうしね。今年はなかなかぬくうならんし、苛つくんもわかりますよ」  「芸州なんざ恐らくまだ雪が降っておるよ」  「えっ、そうなんですか?」  「──多分な」 本気にした亀吉に、進之丞は少しだけ苦みを含んだ笑顔を向けた。